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Twitterに敏感すぎでは?

Twitterに敏感すぎでは?

多くの人は、ツイッターを知人とのコミュニケーションに使う。日常の会話や、ラインでのやり取りの延長である個人的なやり取りがほとんどである。そして、SNSでは他人のやり取りを第三者が見れる。一見、「他人の会話を見れるなんて楽しい」と思うかもしれない。

 

しかし、そういったやり取りに敏感な人がいる。イライラしたり、怒ったり、傷ついたり、自分にとってマイナスになる影響を受けている。

 

どうしてそんなに感情を刺激されるのか私にはわからない。自分の好みで、自由にツイッターをやっているはずなのにそれでは害が多いではないか。ずいぶんと不自由な姿勢に見える。

 

こちらも参考までに。

jin115.com

 

本来の会話の面白さとは

これまで、会話やチャットは、その当人たちのものだけであった。そこに他者の視線はほとんどなく、第三者がそれを目にすることもなかった。それは秘匿されているし、他者も注意を向けようとはしなかったはずだ。

 

つまり、本来のコミュニケーションは、当人たちの中で完結している。これが会話の意義にもかかわる。
 
なぜならば、そもそも、おもしろい会話とは ”当人たち” のものだからである。たとえば、ある会話をあなたが目撃したとしよう。そこではあなたは必ず冷めた参加者となってしまう。あなたにとってその会話がつまらないのは明らかだ。会話の内容がどうこうというより、会話は主観的だからこそ面白いというそもそもの構造的な問題のせいだ。
 
 
 

Twitterの性質「はたから見たら構造」

 
SNSの登場による「可視化」というキーワードに注目しよう。
 
ツイッターでは、あいかわらず、仲がいいもの同士のやりとりで盛り上がっている。会話の内容もそう変化はない。だから、SNSの登場でコミュニケーションの本質が変わったわけではない。変わったのは、第三者にとって「見えるようになった」という点だ。
 
文字によって、会話、やりとりが「見える」「残る」ようになっている。これが、内輪なものである会話やラインでのやりとりを「部外者」である私たちに目撃させる。つまり、ツイッターという構造は、「強制的な可視化」を起こす。
 
では、この可視化が何に結びつくのか。
 
それは、「ツイッターでは端から見たらという状態が当たり前になること」である。ツイッター上では、全てがこの前提の上に成り立っている。
 
具体的にはどういうことか。
ツイッターで、見たくないものを見せられる経験をしたことがあるだろう。たとえば、AさんとBさんの会話をCさんが目撃する。それはもちろん、内輪な内容である。そのとき、第三者であるCさんは、「それツイッターでする必要ある?」「そんなやりとりラインでやれよ」などの感想を持つかもしれない。しかし、この反応自体はごく自然なものだ。あなたに関係のない会話なのだから。つまり、ツイッター上では、「はたから見たらそれはつまらないよな」というツッコミが ”必ず” できることになる。
 
構造的にこのようなツッコミができてしまう。
 
この前提と利用者であるあなたの態度の関係を最後に見てみよう。
 

 

三者であるあなたへ

以上のような前提を踏まえると、ツイッター上で他人の会話に、ケチをつけすぎたり、敏感になりすぎることはいかがなものだろうか。はたから見たら、どんな会話でもケチはつく。それは、「本来の会話の意義」「はたから見たら構造」を踏まえれば納得できると思う。
 
当人たちがコミュニケーションを取れているのならそれでいいではないか。
 
それにあなた自身も、自分たちの内輪なやり取りをツイッター上に流している。構造上、「お前もそうだろ」と言われるのが落ちである。
 
しかし、そのツイッターというゲームに参加することを選んだのはあなた自身である。ツイッターのルール上しかたのないことなのだから、イライラしたり、影響を受けすぎていると感じたら、辞めればいい、それだけだ。
 
こういった「構造」に注目することで、少しは寛容になれるのでは?
 

 

 

オマエモナー」と返答するコミュニケーション

 

p490

「自明に見える前提(全体)も、個人が選択したもの(部分)に過ぎない」という具合に、全体を部分へと脱臼させてしまい、あらゆるメッセージを相対化させていくコミュニケーションの作法 オマエモナー」と返答するコミュニケーション を活発化させる。

 

「はたから見たら構造」は宮台真司の上記の本を読んでヒントを得られたように思う。

 

あらゆる言説が構造的に相対化されている。ゆえに誰が何をしようとも、他者から「お前もそうだろ」と指摘されてしまう。これでは、何をするにも他者関係での不自由さがつきまとう。この「オマエモナー」作法が行き着くコミュニケーションの形態について関心がある人はぜひ上記の本を読んでほしい。

 

 

自分がイライラしたいだけなのでは?

他の方法として、自分の不快感の本質を探る、というものがある。むしろこっちが王道だろうか。

 

なぜ自分はこんなにも何かに対してイライラしているのか。ツイッターに限った話ではく、生活全般の話だ。

 

いったいあなたの ”なに” と、世界の ”なに” がinteractionしているのか。

 

人の認識という観点から考えたい。哲学や宗教、認知科学、様々な先人たちが人の認識と世界について分析している。

 

ツイッターなどでイライラしている人は、日常生活の他の場面でもイライラしているのではないか。

 

不快なものを探そうとするから見つかるのだ。あなたが見つけようとするからそれは見つかる。幸せな人は幸せを見つける力があると言える。同様にイライラが見つかるのは、あなたが不快なものを見つけようとしているからだ。すべてはあなた自身の認識の問題だ。これは世界の見方に関わる根本的な話である。世界とは考え方次第でどうとでもなる。あなたの認識に依存するのだ。なぜならばそれはあなたの世界なのだから。

 

つまり、あなたの中の ”ある欲求” があなたにその世界を見せているのだ。
その何かを分析することで自分自身からより自由になれるだろう。