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【宗教と生命 激動する世界と宗教】 テクノロジーに使われないための思想

宗教と生命

宗教と生命 激動する世界と宗教

宗教と生命 激動する世界と宗教

 

大好物なジャンルです。

 

私たちはテクノロジー「を」使っているのか、

それともテクノロジー「に」使われているのか?

 

こんな一文から始まります。うーん、いい!

 

なぜ「宗教」というものを考える必要があるのか。

人間という生物の心の癖の表れが、宗教というもののある側面なのだと思う。よく「日本人は無宗教だ」とは言われるが、私はそうは思わない。

 

心にある「宗教システム」から自由な人間はほとんどいないからだ。最近なら、SNSを通して盛んな信者ビジネスや、アイドルへの熱狂などもそうだろう。これらも、宗教的な心の動きという構造がある。

 

今回の本では、豪華な論客たちが「宗教と生命」というテーマで語り尽くす。やはりのAI論についての言及も多く、宗教学に精通する方々からの指摘は新鮮だった。幅広い話題が詰まっている分、教養の大事さを痛感した。気になった論点をまとめてみたいと思う。

 

 

 

 

はじめに

以下のは、5人の論者の最初の挨拶で気になった部分を抜き出してみた。

 

 ・松岡正剛

これまで宗教が組み立ててきた思想は、どんな思想よりも巨大で精緻で、また大胆でナイーブなものだったと私には思われる。

 

宗教は言語と論理の、非言語と非論理の、最も過激な巣窟でもあったのである。

 

 

 ・池上彰

「宗教は、人々の幸せのためにあるはずなのに、なぜ暴力がつきまとうのか」という根本的な疑問に突き当たるのです。これが宗教の「恐ろしさ」でもあります。

 

 

佐藤優

宗教は、モダン、プレモダン、ポストモダンのすべての状況に適応する力を持っている。

 

死について考える時には、どうしても啓蒙的理性の外側に出なくてはならない。これも宗教が得意とする領域だ。

 

 

・安藤泰至(宗教学・生命倫理・死生学)

今私たちに求められるのは、宗教的な観点からいのちを問うだけではなく、いのちという観点から宗教を問い直すという姿勢ではないだろうか。

 

 

・山川宏(人工知能

個別には様々な目標を持つ人工知能同士が共存するために倫理的な関係性を構築する必要が生じ、人工知能にとっての宗教のようなものが必要になる可能性もある。

 

 

 

 

差異と矛盾 (佐藤優

佐藤優氏が指摘したロジックである。差異と矛盾の違いをつかむことが重要だという。

 

差異とは、個人が個人であるための違いである、と私は解釈した。その人の身長だったり、性格だったり、何を信じたいか、などというパーソナルな部分である。この差異の特徴とは何か。それは、矛盾と違って解消できない、ということだ。

 

矛盾とは、解消できるもののことを言う。一方、差異とはそもそも解消されるものではない。

 

この矛盾と差異の違いを指摘した上で、佐藤氏はこう述べる。ここが、個人的には重要なところだと思う。

 

今回話しているような、宗教などのテーマは、最終的にはほとんど差異の問題に行き着いてしまう。言い換えれば、立場設定の問題、数学の公理系の問題になる。AI論でのシンギュラリティなども、ほとんど立場設定の問題だ。人によって、「シンギュラリティ」という言葉の意味が違うまま議論されてしまっている。

 

 

 

自己言及、全体性 (松岡正剛

脳という回路は自己言及できない。その分、言語においては自己言及できるようになった。例えば、「「クレタ人は嘘つきだ」とクレタ人は言った」など。

 

言語という外部装置を通して、矛盾したこともイメージできるようになった。

 

だから、言葉の使い方をルール化する必要があった。その初めの一歩が、宗教における言葉のルール化だった。しかし、あまりうまくいかなかった。なぜなら、民族、血族、風土、気候、地域が一緒にならないという社会の問題があったからだ。

 

国ができたり、学校ができたり、科学が進んことで、人はあらゆる物事を同一のロジックで語りたくなる。これは、宗教の思想の中にも現れる。

 

 

 

AIが世界の全体性を振り返る可能性は?

 

宗教、生命、機械を同時にふりかえることのできる思想はほとんどなかった。

 

なぜか?

 

それを松岡は、「振り返る主体が何か」わからなかったからだ、という。

 

神と一緒に、市民として、国民としてなどなら、振り返ることができる時代もあった。しかし、相手は、「宗教、生命、機械」などが絡まったものだ。かつてはこうした領域を、文学やSFがになっていた。今後は、AIが担うことが期待されるが、チューリングマシーンなどに「自己」がないように、全体性に届いているとは言えない。

 

全体性とは、「あらゆるもの全て」というくらいの意味だと思えばいい。

 

個人的に気になったのは、「自己」と「全体性」の関係である。それぞれの言葉の定義は説明不足だったが、全体性という概念は主語ありきなのだろう。何にとって、誰にとっての全体性なのか。だから、松岡は「振り返る」という言葉を使ったのだと思う。

 

今後もやはり言語は統一できない。AIが自然言語が苦手なままだ。根本的には、解ける見込みのない記号設置問題が潜んでいる。だから今後はメディアとインターフェースで、そういった異質なものが接していくのだろう、と松岡はいう。

 

その根拠としての考察も面白かった。

脳は自分で自己言及して喋れないから、目や口、手の動きを使っている。何かを伝えるためには別のメディアやインターフェースが必要になる。

 

松岡正剛は、生命科学にも精通している。こうした現代の人間の動きも、こうして生命のカラクリから読み解いているのだろう。

 

 

 

「全体性」という概念

この宗教と全体性というテーマにはとても興味がある。全体性はなくならない、だから、宗教はなくならない、と言う人もいる。ここでいう全体性の議論は、論理に基づくものだ。だからこそ、難しいところではあるが。全体性というテーマについてはもっと考えていきたい。

 

こちらでも考えています。

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