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映画「FAKE」感想・解説 ラストシーンの意味とは?【ドキュメンタリーは嘘をつく】

佐村河内騒動の衝撃 FAKE ネタバレ・考察

 

みなさんは、佐村河守氏のゴーストライター騒動を覚えているでしょうか?

そこには、耳が聞こえているのかいないのか、作曲できるのかできないのか、などの疑惑があった。

 

「何が真実なんだよ!!」

「はあ、またメディアが騒いでるわ」

「メディアの言うことは信用できん!」

 

などなど様々な態度の人がいたと思う。今回は、佐村河内守氏に迫ったドキュメンタリー映画について考察してみる。監督は、オウム真理教のドキュメンタリーで有名な森達也だ。わかりやすく二分したがる社会を否定するのが彼の手法だ。

 

また、衝撃のラストシーンでも有名な映画でもある。いったいあれには、どんな意味があるのか...

 

社会とは、人とは何なのかに迫る極上のドキュメンタリー映画である。

 

今回の記事を読み終えると、「人と社会とメディア」とはなんなのか、より深く考えられるはずです。

 

 

 

 

 

映画「FAKE」

FAKE ディレクターズ・カット版 [DVD]

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FAKE』(フェイク)は、2016年制作の日本のドキュメンタリー映画ゴーストライター問題が発覚し、渦中の人物となっていた佐村河内守を中心に、彼を取材するテレビ関係者、真偽を確かめに来る海外のジャーナリストなどを1年4か月に渡って追ったドキュメンタリー作品

 

監督である森はジャーナリズムに基づいたノンフィクション作品ではなく、演出の入ったドキュメンタリー作品であること強調しており、画一的な報道がなされる上での別視点の提供であるとしている。

 

FAKE (2016年の映画) - Wikipedia

 


映画「FAKE」森達也監督独占インタビュー

 

 

 

 

 

 

真実と嘘

真実ってなんだろう。

嘘ではないことか。それなら、嘘ってなんだろう。

 

よく使う言葉なのに、その意味は曖昧だ。実は人は、ほとんどの言葉をなんとなく使っている。そのなんとなくさは、人の柔軟さの所以にもなる。しかし、もちろんマイナスになる面もある。

 

それは、言葉による思考停止だ。たとえば、本来は白黒に分けられないのに、分けようとしてしまうことなどだ。言葉のあいまいさの前で思考停止し、その言葉にはっきりとした実態があるかのように思ってしまう。

 

今回の、「佐村河内騒動の真相」もそうだ。「真相」という言葉を使ってしまえば、唯一の確固たる何かが存在しているように思えてしまう。しかし、そんなものはない。この映画を見ればよくわかる。様々な要素の網目のグラデーションがあるだけである。

 

歪めなければ物事を認識できないのが人間だ。だから、限られた情報だけで判断しなければならないのは仕方がない。これが「解釈」という行為だ。よって、人の数だけ解釈があることになる。とにかく、分かりやすい真実、嘘は存在しない。

 

 

 

 

 

 

ラストの意味って?

衝撃のラストという宣伝文句だったこの映画。

 

この映画は、森監督が佐村河内氏に問いかけたところで終わる。

「まだ私に嘘をついていることはありますか?」

佐村河内氏の沈黙で、この映画は終わる。最後の最後に、微妙で、矛盾に満ちた人という存在を見せつけるのだ。

 

確かに、このラストシーンは不思議だった。ここで終わるのか、と。

 

この意外性の正体こそ、私たちの常識なのではないだろうか。

 

わかりやすくオチがあるのが映画であり物語だ、というのは私たちの思い込みだ。観客は、この常識というフィルターで、映画のラストを期待している。だから、その期待の裏切りが衝撃のラストと解釈されるのだろう。

 

ラストシーンを考えよう。

「意味がある、答えがある」と、簡単に思ってしまう社会を否定したいのだと思う、監督は。

 

彼が伝えたいことは、「わかりやすさ」ではない。そう言った常識こそが奇妙で事実に反したものだ、ということだ。そのわかりやすさを求める限り、金儲けに支配されたメディアの奴隷のままだ。それが集団化を促す。とても危険な状態だ、と監督は述べている。

 

彼はこうも言っている。
「メディアには信念がない。その時、儲かることをするだけだ」

 

 

 

 

 

 

靴下を履いた足

ラストの作曲のシーン。なぜか変な位置から撮影している。

この画角は何を意味するのだろうか?

 

「隠し撮り」をしていることを意味すると思う。


これまでは、佐村河内氏に許可を取って撮影していた。しかし、作曲のシーンからは、隠し撮りをしていた。佐村河内氏の真実に近づくための行為だ、と解釈すべきなのだろうか?

 

いや、ここで改めて森監督の意地の悪さを感じる。「ドキュメンタリーは嘘をつく」これが、監督の言葉だ。だとするならば、一見単純なヤラセに見えるこのシーンも嘘になるのではないか。ヤラセに見える、ことすらもヤラセ。

 

森監督のしたいことは、単純さ、白黒、明白、の否定である。徹底的に、分かりやすいオチ・物語を否定する。私たちが染まっている世界の嘘を揺さぶるための、相対化するための嘘を使う。

 

 

 

 

 

 

「FAKE」

メディアの作る世界も。
私たちが切り取っている認識世界も。
そして、監督が作った映画も。

 

全ては、作り物だ。ある意図があり、焦点がある。

 

「クソメディア見ているなら、俺の映画の嘘にも付き合え!」という監督の声が聞こえてきそうだ。

「ありのままの真実なんてありえない」ということを、白黒つけたがる病にかかっている私たちに見せつける。

 

最後の佐村河内氏のカットの存在も、それまでの映画の内容全てを否定してしまうかもしれないものだ。やはり、私たちは「真実と嘘が存在する」という幻想をそろそろ捨てなければいけない。真実も嘘も実態はない。あるのは、やはり人の解釈だけだ。

 

監督が編集したこの映画も、決して真実を暴くためのものじゃない。

あるのは、監督がつくった嘘である。

 

この映画そのものが「FAKE」じゃん、という批評もある。そうなると、メタな構造だということになる。そのメタ構造そのものも、私たちのメディア感を揺さぶるために、強力なのだろう。

 

 

 

 

 

参考記事

 

www.cinematoday.jp

最後に僕が佐村河内さんに投げかけた言葉に対してどう答えたのか? という質問を必ず聞かれるのですが、『最近、年をとって忘れっぽくなったので覚えていません』と答えるようにしています」と煙に巻いた。

 

ラストシーン、あなたはどのように解釈したいだろうか?

 

 

 

 

 

宮台真司 批評

社会学者の宮台真司もこの映画を批評しています。この批評が、めちゃめちゃ面白い!!!

学問的な見地から、ここまで解説できるのは素直にすごい。自分自身の教養を底上げするのにも、この映画をさらに深く考えるためにも最高に役立つでしょう。

 

realsound.jp一部を引用します。

 

言語によって構成された社会システム(とパーソンシステム)を生きる我々は、真・善・美に関する二元図式によって自らを構成されているがゆえに、必然的にデタラメを免れられないのです。

 

森達也監督の表現はそもそも2段階になっています。(1)<世界>はそもそもデタラメであることを忘れるなという寓話告知の段階。(2)寓話に反してヒトを気休めの俗情(多くは超自我的な欲動)に関わる釣りで翻弄するマスコミを批判する段階。

 

その意味で主軸は飽くまで「<世界>はそもそもデタラメであり、<社会>とは所詮その程度のものだ」とする寓話性にあります。単なる個別メディア批判を超えた寓話性ゆえに僕は過去二十年、<遅れ>をキーワードに森達也監督の表現を全面的に支援してきました。 

 

精神分析学、社会システム理論、哲学など、深い分析が満載の批評になっている。おすすめ。

 

こんな批評を見せつけられると、「まだまだ映画を楽しめるな」と鼓舞されますね。

 

 

 

 

 

 

 

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まとめ

・絶対的な「答え」はない

・あるのは揺らぐ解釈だけ

・社会を二分化したがる傾向は危険

・メディアには信念がない。その時儲かることをするだけ。

 

 

 

追記

とても、面白い映画です。先の騒動に興味がない人でも、人と社会を知るという深さが味わえる作品です。

 

是非これからも、こう言ったテーマで考え続けてみてください!!

 

本ブログがその考える材料になることができたなら、とてもうれしい。是非また、読んでみてください。

 

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