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疾風怒濤精神分析入門 【書評・まとめ】 超わかりやすいラカン入門!!

記事の内容

 

皆さんは、精神分析学というものをしっているでしょうか?いくつかの体系がありますが、「ジャック・ラカン」の精神分析に注目してみます。

 

精神分析学は、臨床実践としての側面と、思想としての側面があります。

 

今回紹介する本の著者は、現代は速く結果が求められる時代だとしています。だからこそ、その速い流れに抗った地道な実践である精神分析学の役割は大きい。

 

個人的には、ラカン精神分析学の思想的な側面に興味があります。何故ならば、哲学や社会学などの書籍を読むと、彼の考え方、用語が出てくるからです。

 

今回の記事では、「疾風怒濤精神分析学入門」という本の内容をまとめます。ラカン入門に最適です。

 

 

 

 

 

 

心的次元の区分

 

心的な次元を3つに区分すると、見通しが良くなる。

想像界
象徴界
現実界

 

 

想像界

イメージの領域のこと。肉体は物理的なものだが、「身体」はイメージに含まれる。身体の機能が働くためには、自分の身体を鏡に映し、統一的なものとして把握する契機が必要。

 

 

象徴界

言語の領域。
意味のような想像的なものを作り出す、言語構造が象徴界
構成の元をシニフィアンという。

ソシュールが使う意味とは、やや違うことに注意。

シニフィアンそれ自体では、意味を持っていない。他のシニフィアンと連結することで、意味を持つようになる。

想像界は、象徴界によってコントロールされている。

<法> =「ルール一般」
象徴界においては、「言語=文化=法」

 

 

現実界

物理的な世界から、不可能性それ自体へ変遷。

象徴界の構造自体に根ざす不可能なものの全般が、現実的なものと呼ばれるようになった。

 

 

 

 

 

鏡像段階とは?

 

赤ちゃんには、自我はまだない。

自我が成立するためには、自分を対象化する契機が必要。

しかし、これが自分だというイメージは、自分そのものではない。

つまり、鏡像とは他者なのだ。
他者の存在がなければ、私たちは自我を見出すことができないのだから、自我は他者があってこそ成立するもの。

自分のイメージの正体は、他者のイメージにすぎない。だから、他者に自分を奪われるかもしれないという恐怖が生まれる。自分と他者の間の鏡像の奪い合いといえる。

 

 

 

 

 

他者と<他者>

 

他者は自分と同レベルな他者のこと。自分のイメージや友人など。
 
一方、<他者>は、絶対的な他者のこと。子供にとっての大人、神、世間など。そして、<他者>は<法>をもたらす。
 
<他者>とは、象徴界のもの。だから、言語の世界に入るとは、根源的な<他者>の経験になる。
 
私たちは、生まれてくる前に言語的な身分を与えられている。「〇〇の息子」など。だから、人間は最初から言語の世界に産み落とされることになる。
 
 
鏡像というイメージだけで、自我が保証されるのではない。母親という<他者>が保証してくれるおかげで、鏡像という他者が機能する。
 
母親は、人間が最初に出会う<他者>。そんな異質の存在に、人は生殺与奪の権利をにぎられている。この根源的な不穏な何かが、人間の本質にはあることになる。
 
無意識とは、言語的なもの。
 
無意識がシニフィアンによって構成されている以上、無意識はシニフィアンの<法>にしたがっている。
 
私たちは、同じ失敗を繰り返してしまう。このように、象徴界は一貫して働く。これをラカンは、「手紙=文字はつねに宛先に届く」と例えている。
 
 
 
 
 
 

<父の名>

 
赤ちゃんは、母親無くしては生きることができない。だから母の法に従属している。
 
ここから抜け出すために母の<法>とは異なった<法>が必要。それが、<父の名>。
 
赤ちゃんからしてみれば、母が<法>にしたがっているかどうかわからない。だから、母という<他者>に<法>を与える、もう1つの<他者>が必要。
 
父は母の言葉の中にしか存在しない。
 
父が機能するためには、その内実があってはいけない。父は、<法>を保証する以上のことをしないので、人間として死んでいる。
 
 
しかし、赤ちゃんにとっては「剥奪者としての想像的父」としてもはたらく。母が奪われるかも!
 
奪う父から、<法>を与える父に移って行く。
 
 
 
 
 
 

ファルス

 
 
「ファルス」意味的、文化的な抽象的男性器のこと。
 
ファルスとは、母親にとって欠如しているもの、つまり欲望の対象そのものを表す。だから、幼児はそのファルスの欠如を埋めるために、ファルスと同一化しようとする。
 
母親の要請に応えて行くことで、次第に自我を確立していく。しかし、それは、「母のための自我」になる。
 
お母さんにはファルスがないが、それは父が奪ったからだ、と父をライバル的な関係に捉えてしまう。しかし、ほとんどの人は大人になっても、想像的父への敵意を抱き続ける。「あいつさえいなかったら、成功したのに」など。
 
本来、ファルスの欠如とは人間世界の本質。想像的父とは、世界の「満たされなさ」の責を負わされた生贄のようなもの。
 
ラカンが言う去勢とは、<他者>におけるファルスの欠如を受け入れることそのもの。
完璧な母親という幻想や、「誰かのせいだ」という幻想を手放すこと。
 
幼児は、父親のようにファルスを持ちたいという理想を抱くからこそ、父に同一化し、<法>を受け入れる。
 
エディプスコンプレクスとは、主体が想像的罠から脱し、象徴界での生を安定させるプロセス。
 
エディプスコンプレクスの二本柱が、<父の名>とファルス。
<父の名>は<法>を統御するシニフィアンであり、ファルスは欲望やセクシャリティを標準化するシニフィアン
 
 
 
ずいぶん、男性本位な議論に見える。それは、ファルスという男性的なものを出発点に、男女まとめて議論しているからだ。ファルスから離れた議論は、70年代のラカンにおいてやっと議論されることになる。
 
 
 
 
 
 

「死への享楽」と「対象α」

 
現実界とは、イメージでも言語でも扱えない不可能な領域のこと。
象徴界の穴そのものといえる。
 
精神分析の実践とは、人間が象徴界によって現実界を取り扱うことを可能にすることである。
 
欲動とは、言語の<法>をはみ出すような過剰なもの。現実界のものといえる。
 
享楽とは、快楽を超えた気持ち良さ。<法>という安全装置を逸脱したもの。
 
人間には、根源的に死への享楽がある。
 
<もの>の体験とは、原初的な満足体験。しかし、それは一度きりのもの。
 
エディプスコンプレクスは、子供を享楽から遠ざける。<法>をもたらすのだから。
 
<もの>が失われ、現実界に追いやられたために、享楽は不可能なものになってしまった。
 
<もの>の残滓を、ラカンは「対象α」と名付けた。失った<もの>の享楽を取り戻すための指針として働く。
 
欲望は<法>に従い、欲動ははみ出す。
 
象徴界の<法>に従うことで、欲望の<法>をないがしろにしてはいけない。
 
欲望と対象αは、象徴界現実界の結節点になるという点で、同じ役割を果たす。
 
 
 

ファンタスムとは、象徴界現実界の結びつきの形。

未来への希望(<もの>の再発見の欲望)を生み出すとともに、現在の満足(対象αの享楽)を生み出す。

人生の指標としてのファンタスム。

しかし、ファンタスムは幻想に過ぎないが、毒にもなる。

 

ファンタスムとは、その人の生き方を根本的に期待していた枠組み。それまでのファンタスムで理想的存在に祭り上げられていた対象から自由になれ。

 

精神分析とは、理想に苦しめられなくなることである。

 
 
 
 
 

まとめ

 
人間の心的な次元の構造を把握する手段として、ラカンの概念は重要だと思う。検証不能な側面はあるが。
 
これら概念を抑えることで、精神分析の概念を用いた思想をよみとくことが、もっと楽になると思う。
是非読んでみてほしい。
 
 
 
 
 
 
 
 

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