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分析哲学講義 【まとめ】 入門におすすめ 言語を深掘る!!

記事の内容

今回は、「分析哲学講義(青山拓央)」という本を紹介する。

 

分析哲学とは、あまり聞き慣れない言葉かもしれない。しかし、英米哲学では、その軸にある考え方になっている。

 

一般的に哲学と言われることと、大きな違いはないが、特徴は、我々の言語による認識を前提に哲学していくこと、と言われている。

だから、言語そのもの、言語と論理などをどんどん深掘りしていく。

 

今回は、言語の中でも、「意味」に注目する。これはまさに、私たちの日々のコミュニケーションにも関わることだ。一体どうやって、私たちは「意味」のある会話をしているのだろう?その根拠はどこにあるんだろう?

 

その分析は、あのウィトゲンシュタインにまで及ぶ。彼の哲学に興味ある人にも、役立つ記事になるはずだ。

 

こんな疑問の整理のために、本書から内容をまとめさせてもらう。

 

 

 

 

分析哲学講義 青山拓

 

 

フレーゲラッセルの論理学研究に始まり、クワインウィトゲンシュタインらの活躍を経て、現在では哲学の全領域に浸透した分析哲学。言語や概念の分析を通じて世界を捉えるその手法は、驚くほど幅広い分野で、新たな発見をもたらしてくれる。「言葉はなぜ意味をもつのか」「自然科学における自然とは何か」といった問いから、可能世界、心の哲学、時間と自由といったテーマまで、哲学史上の優れた議論を素材に、その先を自ら考えるための一冊。問題を正確に考え抜く「道具」としての分析哲学を伝える、珠玉の入門講義。

 

本記事でまとめた以外にも、可能世界、心の哲学、時間の哲学など幅広い話題が楽しめる。文体にもクセがなく、とても読みやすいと思う。

 

ぜひ、本書へと進んでみて欲しい。

 

 

 

 

 

意味はどこにあるのか

 

意味の客観性をどう担保すればいいのか?

数式や定理などの意味が、人によって異なっては困る。心理的なイメージの外に意味のありかを求めたい。

 

・自分と他人との間で、イメージの比較はできない。

・概念とイメージの違い。意味は概念に近い。

同じ1つのイメージから、いくらでも異なる規則を取り出せてしまう。どんなに単純なイメージでも、無数の解釈を許すしてしまう。

 

意味が公共的空間にあるのだとしよう。

それは、誰にとっても同一性を保ったものである必要がある。

 

言葉の意味は、指示対象そのものとする。しかし、抽象的な概念の場合、指示対象はどこに存在するのか。「赤い」や、「2」はどこに存在するのか?

それに、文の意味も対象として存在することになるが、偽の文の指示対象はどこにあるのか。

 

 

 

 

 

名前と記述

 

「現在の日本の大統領」という表現は、そんな人はいないのになぜ意味を持つのか?

 

意味は確かにあるのに、指示対象はない。

 

ラッセルは、この文の論理構造を分析することで、唯一の指示対象が必要ないことを示した。この分解は、述語論理学による。

 

述語論理は、関数的分析と量化により、複雑な文を扱える。

「あるひと」の指示対象は、特定のどの人物のことでもない。

固有名も、ただ1つの実在的対象を示すのではなく、満たすべき述語が省略されたもの、とした。

 

クワインは、「存在するとは、変更の値になることだ」という。

量化表現を用いた文に、変更の値として入ることが存在することである。

量化表現があって、その後に存在がある。

 

「存在するとは、変項の値になることだ」との考えには、重要な言語論的転回が含まれています。量化表現から離れたところに「実際にあるもの」などはなく、また、言語と無関係な「実際にあるもの」の探究もありえないのです。

 

 

うーん、ここで大きな言語論的な展開!

私たちの認識に言語がどのように関わっているのかということに大きく結びつく。色々と議論の多い「存在」というテーマに対して、私たち人間の言語による認識から答えを出してくれる。こーゆうのが哲学の面白いところ。けれど、もちろん批判もあるよう。なかなか決着がつかないのも、またまた哲学ぽい。

 

 

 

 

 

文脈原理

 

語ではなく、命題を意味の基本単位とする。命題の真偽にどのように貢献するかによって、語の意味が決まる。

 

・「命題が世界を開く」
ウィトゲンシュタインの「論考」。
命題によって写像しうることがらのみが、世界には起こりうる。
そもそも世界は、命題と同じ形式でしか存在できない。世界成立の条件に関わる見方。
文脈原理の存在論化。命題の真偽が、現実であるかそうでないかという存在論的な区別に対応する。

 

・意味の検証理論
意味とは検証条件のこと。検証条件を知っていることが、意味を知っているということ。

 

・科学と非科学の間
論理実証主義によって、科学と非科学の線引きをすることは不可能。

 

クワイン全体論
実験、観察によって検証されるのは、単独の命題ではなく、命題のまとまりである理論。

 

ある検証をするためには、様々な前提条件が必要。理論的な前提が、観察を陰で支えている。「観察の理論負荷性」と呼ばれる。

科学全体は「境界条件が経験である力の場」のようなもの。
絶対修正されることのない中心部などないことに注意。よって、トートロジーのような論理的真理も、経験による修正の可能性を否定できない。

 

全体論の全面化
修正前の理論と修正後の理論の良し悪しを比較するには、その両者を見渡す為の、論理が必要なはず。そして、その論理自体は修正の対象外でなければならないのでは?

 

いや、理論は動的な中心を持ちつつ、理論としての同一性も持てるはずだ。しかし、全体論そのものが全体論によって自己否定される可能性もある。しかし、そのような破綻は、現時点の知識からは想像もできない。

 

 

 

 

 

意味はどこに行ったのか

 

ウィトゲンシュタインの意味の使用説
言葉の意味理解とは、その実際の使用である。みんなと使用が一致していることを言語ゲームに参加している、と表現する。

 

言葉と行動を結びつける、意味という媒介物はそもそもない、とするところがこれまでの意味論とは違う。

意味を理解しているとはどういうことかに注目する。

「使用説は何の答えにもなっていない」ことが、使用説における最重要の答え。なんで答えが存在しなくていいのか、というところがポイント。

 

・規則と解釈
共通した唯一の規則を見出すことはできない。つまり、規則は、一致が成立しているという事実を後追いする形で初めて、その存在が示される。

 

すでに、生活の中で「一致」できているから、規則があるように見える。

規則や意味の同一性が実践の一致をもたらすのではなく、無根拠な実践の一致が規則や意味の同一性をもたらす。

 

・説明という営みの限界
言語ゲームを背後で支える、さらなる説明はない。

三段論法のような論理的な推論にもパラドクスが生じる。三段論法を支える根拠となる推論法則はどこにあるのか?さらにその推論を支える追加法則は??

この規則の追加は、無限に終わらない。つまり、実践の一致の説明に「底」がある。

 

・そこの下にある自然は?

 

人間にとって真に原初的な自然は、それを写すための言語をもちません。そのような言語がないということが、使用説が「答えなき答え」であることの意味であり、言語ゲームの根底性を示すものだからです。

 

 

ついに説明の限界が!!!

私たちは言語によってなんでも説明できると思ってしまう。その最たる営みこそが、科学や哲学だ。しかし、それらも言語によって行われる。そして、その言語では説明することすらできない領域が示されてしまう。言語によってはアプローチすらできない「自然」がある。この言語の限界、説明の限界は、知恵としてかなり重要ではないだろうか?

 

 

本書では、単なる限界として終わらせるのではなく、自然科学との関係の中で、この「自然」を捉えようとする議論が進む。ここも新鮮な議論で面白かった。

 

さらに、可能世界、心の哲学、時間の哲学など幅広い話題へと進む。ぜひ本書へと進んで見て欲しい。

 

 

 

 

 

 

 

 

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論理と哲学の関係については、次の記事にまとめている。

 

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