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『凄い人・本・映画・概念・理屈』に "感染" した結果、生きやすくなった男のブログ。学問から「個人の知」まで。

【宮台真司】「意識高い系」はなぜ虚しいのか 彼らには「主体」がない?

宮台真司が意識高い系を分析

 

世間で何度も耳にする「意識高い系」という言葉。

 

その言葉からどんなイメージを受けるかは、人さまざまだろう。

 

社会学者 宮台真司が「意識高い系」について分析していた内容が面白かった。

 

「意識高い系」には、主体がない、という。

主体とはなんだろうか?

 

今回は、この記事にまとめてみたいと思う。

 

 

 

 

 

 

意識高い系は、意識が低い

 


【宮台真司】意識高い系には「主体」がない いいね集めというクズゲーム

 

 

以下に彼の言葉をまとめる。

 

人間の動機には、2種類ある。

 

内発性 ・・・内から湧き上がる力

自発性 ・・・損得感情  いいね!ボタンあつめのような

 

 

マックスウェーバー 合理性は、主体を消す。 人間を入れ替え可能にする。

主体とは、非合理なものにコミットする力。

いいね!ボタン集めたり、損得計算する人間は、ロボットと同じ。

周りからなんでそんなことするの?と不思議がられるような人間が、主体があるということ。

意識高い系は、非合理を維持できないヘタレ。

 

 

いいね!ボタン集めは、時間の無駄。これに気付く人が増えて来た。

見ず知らずのどうでもいい人のことは気にするな。自分にとって大事な人間のことを、徹底的に大事にし、絆を結べ。

「いいね!ボタン押してくれるかな」と不安ベースで生きるな。

 

 

 

このテーマで語る宮台氏。


かなり、「クズ」を連呼したり、盛り上がって来たりと熱くなっている。

 

彼が使う「クズ」という言葉の意味は、損得人間ということ。

 

彼の話は、やはり聞いていて面白い笑

 

 

子育て指南書 ウンコのおじさん

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意識高い系=「いいね!ボタン」集めばかりしているやつ

 

さて、内容を見よう。

 

SNSに大量に存在する、いわゆる「意識高い系」。今回の宮台氏の指摘は、とても納得いくものだと思う。

 

もちろん、意識高い系の中にも、様々な人がいる。この言葉で、まるっとくくれるものではない。

 

今回の宮台氏が激しく批判する意識高い系を言い換えよう。

意識高い系=「いいね!ボタン」集めばかりしているやつ


たしかに、その様は普通に考えて、尊敬できる人間ではない。中身がない、浅ましいな、と感じてしまう。よく考えれば誰でもわかることだろう。この感覚というのは、理解できる人が多いはずだ。

 

今回の宮台氏の話は、この「感覚」の背景を、哲学的に説明してくれる。マックスウェーバーから基礎付けられる展開は面白い。

 

 

 

 

 

 

主体とは何か?

 

ここで重要になるのが、「人間とは何か」という問いだろう。

 

もちろん様々な答えがある。しかし、ここで挙げられている答えは、今回のようなテーマを考える上で、とても役立つはずだ。

 

人間にとって、主体が大事。

それでは、主体とは何か??

 

主体とは、非合理なものにコミットする力

 

なるほど、単に合理的に、計算的に動くだけでは、他のものに入れ替え可能になってしまうわけだ。その人独自のものに、コミットするからこそ、その人でなければならない。つまり、入れ替えが効かない。個人という存在の角が、主体という意思だ。

 

それでは、コミットするという動詞は、何を伝えようとしているのだろう?

 

コミットする力の正体こそ、「内発性」というキーワードだと思う。つまり、その動機が自分の内側から出て来なければいけない。

 

損得や計算という軸で動こうとした瞬間に、経済合理性というフィールドに乗ってしまう。そこでは、入れ替え可能な存在になってしまうのだ。

 

 

内発性というテーマは、「感染」という概念に近い。次の記事で詳しく書いている。

 

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100パーセント損得人間をやめることは可能か?

 

宮台氏の主張の意味を考えるならば、損得人間では幸せな生き方をできない、というものだろう。

 

しかし、私たちは仕事を通して、経済の中で生きている。そこでは、計算的に合理的に生きることが求められる。これが資本主義の本当に怖いところなのかもしれない。

 

だから、私たち現代人は、完全に損得人間をやめることは難しい。

 

領域を分けて考えるのがいいだろう。

 

宮台氏の主張は、幸せや人間関係、性愛の領域に損得計算を持ち込むな、ということだ。何でもかんでもコスパを気にする人間こそ、クズというわけだ。

 

人間の本分とは何か?

人間にとって、幸せ、正愛とは何か?

 

これらを考えよ、ということだ。その領域で大事になるのが、損得計算ではなく、非合理にコミットする力、ということだ。

 

 

 

 

 

 

損得人間=AIで置き換え可能

 

AIが発展してくる現代において、この問いはとても重要だろう。なぜならば、人間の計算力よりも、圧倒的にAIの方が生産性が高いからだ。マニュアルに従うだけのような仕事はAIが得意だ。

 

AIと人間との大きな違いこそ、主体があるかないかだろう。

 

主体がない人間、つまり、劣化した人間にならないようにすべきだ。

 

次の記事では、生命の自分の外側に開かれる可能性を説いている。知能、主体の本質に迫れるはずだ。

 

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まとめ

 

・主体とは、非合理なものにコミットする力

・意識高い系は、非合理を維持できないヘタレ

 

 

本記事が誰か自由につながったのならうれしい。

 

 

 

「森博嗣」とは? 思考回路 & 名言紹介

森博嗣」という人物

 

森博嗣という作家を知っているでしょうか?「すべてがFになる」などのミステリー小説が有名です。

 

現在はほぼ引退し、作家業は趣味にすぎないそうです。

 

彼を紹介したい理由は、彼こそ本当に自由な人だと思うからです。私自身、様々なすごい人の話に触れていきましたが、やはり森博嗣はとんでもない。もっとも尊敬している人かもしれません。

 

今回の記事では、なぜ彼がそれほど「自由」な人なのか、その真髄に少しでも迫りたいと思います。

 

 

 

 

森博嗣 略歴

 

森 博嗣(もり ひろし、1957年12月7日 - )は、日本小説家同人作家、工学博士。元名古屋大学助教授ローマ字表記はMORI Hiroshi

wikiより

 

現在は、金を稼ぐための仕事からは引退し、毎日趣味に時間を使う。作家も趣味の範囲。

 

刊行する作品は、エッセイ、新書が中心。小説は稀。

 

 「すべてがFになる」がデビュー作であり、ドラマ化、アニメ化された。

すべてがFになる (講談社文庫)

すべてがFになる (講談社文庫)

 

 

 

 

 

 

 

何ものにもとらわれない自由さ

 

彼の本当に凄い所は、ズバリ「自由さ」だ。それを一言で表現するならば、

 

「何ごとにもとらわれない」姿勢だ。

 

何ごとにも、つまり、世界、人、自分自身、あらゆるものから自由なのだ。

 

なにものにもこだわらない

なにものにもこだわらない

 

 

 

その自由さのいくつかの側面を見てみよう。

 

 

・他人にとらわれない

比較しない、憧れない、嫉妬しない、他人に欲を持たない
 
 

・常識にとらわれない

自分の言葉、理屈を自分で考える。
他人の理屈や常識を跳ね返すだけの論破力がある。
 
彼の特徴として、「言葉」への敏感さが挙げられる。愛読書は国語辞典だ、というくらい常に持ち歩いているらしい。
 
それも、言葉によって人は思考停止することを知っているからだろう。人は言葉に支配されている。たとえば、「浮気はダメだ!」という意見も、実は、その「浮気」の中身は様々なはずだ。そのカップル、夫婦の数だけ「浮気」の中身は異なる。にもかかわらず、人は「浮気はダメだ!」とまとめて批判しがちだ。言葉に操られている。不自由だ。
 
使っている言葉の意味をもっと厳密に考えようという姿勢は、思考停止を壊し、自由につながる。
 
 
 
 
 

・金儲けにとらわれない

他の有名人や、インフルエンサーは人を煽り、動かそうとする。人を煽り目立つことが、彼らの仕事だからだ。
 
常識を超えた思考で有名な堀江貴文氏なども、やはり目立つことを仕事の一部にしている。
  
一方、森博嗣は他人を動かすのが目的ではない。他人に欲を持たない。金儲けのために、目立とうとしたり、人を煽ろうとする必要はない。
 
 
 
 

・賞に全く興味なし

小説で賞を取ることに価値を感じず、テレビなどのメディア出演は全部拒否。
 
 
 
 

・頭の良さ

過去に発表した作品での予測が当たる。
 
 
一流の科学者らしい。現状の世界の分析力と、技術、テックへの理解度の高さがすごいのだろう。それが作品作りにも生かされている。
 
また、的を得た数々の言葉が最高に考えさせてくれる。いかに私たちがふだん思考停止しているのかを自覚せざる得ない。ネット上でも、名言として話題になっている。
 
正直、彼のような頭の良さこそ、私たち一般人には、全く計ることはできないだろう。こんな記事を書いておいてなんだが...
 
 
 
 
 

森博嗣が描く天才像

 

彼の作品には、多くの天才が登場する。そこで描かれる特徴は、単純に頭がいい、発想力、独創性、思考の自由度、などだろうか。

 

しかし、これくらいなら一般的なレベルだろう。

 

彼は、天才についてこんなことを述べている。

 
天才を作品で描こうとしても、読者のレベル内でしか描けない。読者が想像できるレベルに落とし込まなければいけない。
 
だいたい、このようなことを言っていたと思う。
 
これは、「天才を描く」ということの限界を示している。彼の小説群に登場する最高の天才として「真賀田四季」というキャラクターがいる。彼女は、まさに既存の天才観を超越するような描写を持つ。
 
しかし、これも我々、読者がギリギリ想像できるような範囲に、森博嗣があえてセーブしているように感じる。もちろん、いくつかの側面では、度肝を抜かれるような思考回路を見せてくれるのだが。
 
 
 
ここで、彼の意見を参考に、天才の定義を拡張してみたい。
 
「天才とは、一般には理解できないことをする者だ」
 
私は、天才をこう定義したい。
 
つまり、私たちが持っている視点、常識では全く測れないのだ。つまり、彼ら天才の所業は、年月が経ち評価されることになる。時代が追いつくと表現されるだろう。
 
たとえば、天才として表される画家や、学問の基礎を切り開いた学者たち。生きていた頃は、異端として見向きもされなかった人も多い。生きている彼らのすることを見ても、価値観が異なりすぎて、全く内容を理解できないのだ。宇宙人ほども、見ている世界が違っていると言っていい。
 
これほどの自分の世界を構築できるという思考回路が、まさに天才なのだろう。
 
ここで一つ、注意したいことがある。あくまでも、「天才」という評価は、外野が勝手に判断することだ。そんな外側の評価など、まさに彼らは気にしないだろう。
 
 
 
 
話は変わるが、人は他人を正当には評価できない。だから、私たちだって、周りからの「頭いいね」「頭悪いね」などという評価を気にする必要はない。余計なものに振り回されない姿勢こそ、森博嗣から学べるところだろう。
 
 
 
 
 

名言

名言のいくつかを紹介したいと思う。どれも、より自由に考えさせてくれるものだ。
 
 
・現代人の多くは、「楽しさ」というものは、人からもらうものだと考えている。(夢の叶え方を知っていますか?)
 
・自己満足という言葉が、 忌み嫌われているのは、実に不思議な現象といえる。満足はそもそも自分でするものであって、自己満足こそが正統な満足なのである。(夢の叶え方を知っていますか?)
 
・他者に対する欲がない。欲はいつも自分に向かっている。(つぼねのカトリーヌ)
 
・人の主張の大半は「これが正しい」ではなく、「こうあってほしい」である。(常識にとらわれない100の講義)
 
・人生も、あなたが生まれて、あなたが生きているのは、世界で唯一の条件であって、過去にあなたが生きた例はない。誰も研究していないし、どこにも発表されていない。人生とはフロンティアなのだ。(道なき未知)
 
・好きなのか嫌いなのか、自分はどんな人間なのか、そんなにはっきりわかっているのだろうか。僕は、はっきりしている人間というのは、つまりそれだけ「浅い」のだろう、と想像してしまう。(思考を育てる100の講義)
 
 
 
 
 
 

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まとめ

 

彼のような、本当の意味で「自由=幸せ」に生きている人は、本来は表には出てこないのだろう。他人にアピールする必要がまったくないのだから。

 

一人で山にこもり、修行することそのものに最高の充実さ、幸福を感じる禅者に近いのかもしれない。

 

思えば、彼の自由さは、仏教における「悟り」に近いものがある。

 

改めて、本当にすごい人だ。

 

「本」という媒体のおかげで、彼の思考を覗けることに、とても感謝である。

 

 

 

私たちはどこから来て、どこへ行くのか (森達也) 【書評・まとめ】科学に「いのち」の根源を問う

大いなる問い 「私たちはどこから来て、どこへ行くのか」

 

 私は誰か?

 なぜ死ぬか?

 何を信じるか?

 

今回紹介する本の帯に書かれている問いかけです。

こんなテーマについて、誰でも考えたことがあるのではないでしょうか?

 

しかし、もっと真剣に、それらテーマを考えた機会は少ないのかもしれません。そもそも、考える材料を得るのが難しい分野です。ある程度の教養が染み込むまで、時間もかかります。

 

今回の記事では、これらテーマを考えさせられる本を紹介します。

 

記事を読み終えると、「私たちはどこから来て、どこへ行くのか」という大きな問いについて、さらに深く考えられるはずです。

 

 

 

 

 

私たちはどこから来て、どこへ行くのか:科学に「いのち」の根源を問う

 

今回まとめるのがこの本。

ジャーナリスト、映画監督の森達也が、一流の自然科学者たちに哲学的な問いを投げかけていく。

 

HowではなくWhyと問うことでみえたのは、科学者たちの葛藤や煩悶の声だった。最先端で闘う科学者たちに「いのち」の根源を問いかける、森達也の新境地!

 

筑摩書房 私たちはどこから来て、どこへ行くのか ─科学に「いのち」の根源を問う / 森 達也 著

 

一人一人の科学者達はやはり、膨大な科学の経験がある。謙虚で慎重でもある。そんな彼らが、哲学的な問いに対してどう答えていくのか。とても魅力的だ。全編を通して、深い議論が続く。

 

今回は、一部だけでもまとめてみたい。

 

 

 

 

 

著者について 森達也

森達也は、ドキュメンタリー映画や、鋭い日本社会批評で有名だ。オウム真理教ドキュメンタリー映画が世界的にも評価されている。彼の社会を分析する眼は、本当に重い。すごい人材だと思う。

 

佐村河内氏のドキュメンタリーが最近の作品である。気になる方は、以下のような動画を見てみてほしい。


映画「FAKE」森達也監督独占インタビュー

 

映画FAKEについては、こちらでまとめています。

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長沼毅(生物学者)にきく

 

宇宙に生命はいるか

 

・あらゆる存在のエントロピーは増大する。けれど、なぜこの宇宙はその方向に進むのか?

 

・生命活動が小さな渦になることにより、宇宙全体のエントロピー増大を効率化させる。

 

・「我々は何者か?」

→生命や地球は、宇宙が早く熱的死を迎えるために存在している。生命は、宇宙のターミネーターのよう。

 

・「人はどこからきて、どこへ行くのか」 への、彼の答えもシンプルでいい。

 

「私は男だから卵子を持っていない。だから私は卵子から生まれて死ぬ。そこで終わり。」

 

 

 

 

 

 

村山斉(物理学者)にきく

 

宇宙はこれからどうなるか

 

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・ビックバン以前は「わからない」としか言いようがない 

 

・我々は何者なのか?

→宇宙創世記に物質と反物質がほとんど消えてしまった後に残された僅かな物質の末裔。お釣りのようなもの。

 

・宇宙はうまくできすぎているように見える。天文学的な偶然のおかげで、今の自分がいる。「畏怖」を感じるほどに。

 

・知性ある存在が宇宙をデザインしたとするインテリジェントデザイン仮説

→研究の先に、宇宙に意志を感じることもある。我々の宇宙は無数にあるうちの一つだとするマルチバースという考え方もある。

 

 

 

 

 

 

池谷裕二脳科学者)にきく

 

 なぜ脳はこんな問いをするのか

 

 ・脳は「自分ってなんなんだろう」という問いを考えずにはいられない。脳がそういう質問をしてしまうこと自体が鍵を握るのでは。

 

・言語の副作用

言語は、心の射程距離を伸ばしてくれる。しかし、本来は考えなくていいことまで考えてしまうようになった。

 

「自己を問う」というのは、無限ループに陥る。「自分とは何か?」の答えに対して、「その答えを出している自分とは何だろう?」と、無限後退に陥る。

無限の定義ができるのは言語だけ。言語には、文法があり、その文法は再帰性入れ子構造)を持っている。

 

言語と無限、自己言及、ここら辺は関心あるテーマです!!興味ある人は次もどうぞ。

 

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・生命がいることで、宇宙全体のエントロピー増大の効率が良くなる。私たちは宇宙を老化させるために存在する?「私たちは何のために存在するか」の答えがこれとは、身も蓋もない...

 

・人に似せたアンドロイドを造るモチベーションは科学的にはあまりない。性行為をすれば、子供ができるのだから。

 

アイデンティティは錯覚。それを錯覚とみなす主体も錯覚。これも無限ループ。心と脳を別と考えると、心を観察する自分という発想が生まれてしまう。脳と心、機能と構造は同じもの。それらの正体は、神経活動のイオンの渦。

 

・科学の限界についての一言も、実に脳科学者らしい。

科学の定義は、自然現象を人に理解できる言語で記述することですから。あるいは記述できたような気になって満悦すること、と言い換えた方が正確かもしれません。

 

・認識するとは歪めること。そうしなけらば、人間は考えることができない。歪めるという機能が、私たちにとっての心であり、考えるプロセスそのもの。

 

 

 

 

 

 

竹内薫(サイエンス作家)に聞く

 

科学は何を信じるのか

 

・日本の科学は分業しすぎている、全体をまとめるものがいない

 

・日本の科学者は、自分は何のためにそれをしているのかという哲学的な問いを発しない

 

・超越的な存在が世界を作ったとする欧米、もともと世界はあったとする日本

 

・ネズミに素数という概念が無いように、人間という種の認識システムにも限界がある。だから、「神」は無くならない

 

人間の脳と記号体系で推測できるのはどこまでなのかということは、非常に興味深い問題だと思います。

 

・数学というシステムは、宇宙を完全に記述できるほど強力ではないように思える

 

数学という体系についての次の指摘はおもしろい。

論理的に可能性があるということは、数学的に可能性があるということです。そして、数学的に可能性があるということは、その物理理論ができるということです。

 

・神や大いなる意志の存在抜きに、「人はどこから来てどこへ行くのか」考えることは不可能か?

 

・宇宙は何者かによってデザインされたのか?現状、否定も肯定もできない

 

・量子のふるまいと、人間の心の不思議は似ている

 

・量子のふるまいと、超常現象の見え隠れ

ここら辺をまともに議論するのは、本当に難しそう。

 

・生命は情報だと考えられる。しかし、個人が死ねばその情報もどんどん薄まり消える。それならば、絶対的な「神」はいないのでは?

 

 

 

 

 

 

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教養

 

こういったテーマは、あなたの人生にとってどんな意味を持つでしょうか?

 

「どうでもいいよそんなこと」と思う人だってたくさんいるはずです。

 

しかし、中にはこんなテーマを吸収することで、より楽しく、生きやすくなれる人もいると思います。私もその一人です。

 

こういった教養を、私はとても大事なことだとおもっています。

教養=自分がわかること と私は定義したい。次の記事に書いています。

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まとめ

 

・科学はhowは問えるが、whyはわからない

・先端の科学者はみな謙虚で、断定をしない

・表題のような大いなる問いについては、「わからない」

 

みな口々に「わからない」と、答える。そして、森達也自身も「わからない。だから、あがき続ける」と最後に表現するのが印象的だった。

 

やはり、科学にはある限界がある。では、それはどんな限界なのか?そして、その限界と人間はどのように付き合えばいいのか?とにかく大事なのは、どこかで思考停止してしまわないことだろう。もっと科学とは何か、哲学とは何か、考えられるはずだ。

 

深いテーマに触れられる、とてもいい本だった。

 

 

 

本ブログが誰かの自由につながったのなら、私はうれしい。

 

 

科学と非科学の間 【書評・まとめ】 科学は、イエスかノーで答えてくれない

科学か、非科学か

 

原発の安全基準の数字は?絶対安全なの?」

「そのワクチンって、絶対効果あるの?」

 

私たちは、これらの答えを科学に求める。

 

しかし、そんな科学は、はっきりとした答えを返してくれるのか?

 

さらに世の中には、「科学っぽいけど、なんか怪しいもの」が溢れている。商品や人の発言など、SNSのおかげで、ますます増えているのではないか。

 

そんな中で私たちは、科学とどう付き合っていけばいいのか。そのヒントを、「科学と非科学の間」という本からもらってみよう。

 

 

 

 

 

科学と非科学の間 その正体を探る

科学と非科学 その正体を探る (講談社現代新書)

科学と非科学 その正体を探る (講談社現代新書)

 

 

著者 中屋敷均について 

分子生物学者。著書は、「ウイルスは生きている」など。

 

 生命とは何か、気になる人は次のインタビュー記事が参考になると思う。

honz.jp

 

 

今回の本は、生命学者ならではの視点が多かった。生命を専門とする学者から見て、「科学とは一体なんなのか」「科学とは何でないのか」が、まとめられている。

 

「科学は生きている」という著者の言葉にもあるように、科学という歴史を生命に見立てている視点も勉強になった。ただ、またてるだけでなく、その内容の分析も鋭い。ぜひ読んで見てほしい。

 

 

 

 

 

 

科学が持つ2つの顔

 

科学には二つの側面があるという。

 

・社会に「信託」を下す装置としての科学
・この世の法則や真理を追究する科学

 

そして、重要なのは、科学という営みは何を前提にしているのか、だ。

 

科学の柱となる方法が、帰納法演繹法だ。


帰納法演繹法を採用するためには、ある前提を要求する。

 

「この世界は同じことをすれば、同じ結果が返ってくるようにできている、という仮定」だ。

 

しかし、現実には、同じ条件を2度と作ることはできない!!!!

 

 

たとえば、創薬を考えよう。本当にその薬が効くかどうかを調べるために、実験では条件に制限をしている。しかし、現実には無限の組み合わせがある。調べきることができない。

 

社会が関わる科学ではほとんどがそうだ。実際の無限の可能性を調べている時間はない。

 

だから、絶対に正しい、100パーセント正しいと、科学は言えないのだ。

 

現実的な問題に対しては、イエス/ノーで答えられないのが科学なのだ。

確率で答えるしかない。

 

 

真理、法則を求める科学と、元来100%の正しさなどあり得ないことを前提とした科学。


この2つの側面が社会ではごちゃごちゃになっているのが問題だ、と著者は指摘する。

 

特に、社会との関わりの中で大きなテーマになったのが原発だろう。「安全基準の数値」これも、「安全か安全でないか」の2択には原理的にならない。

 

 

 

 

科学という方法そのものへの批判を、しっかりと議論しているのが科学哲学という分野だ。どのように科学を考えていけばいいのかのヒントがたくさんある。次の記事を見て欲しい。

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科学と非科学はどう分けるのか?

 

科学の歴史は、未知の領域の中から新しい真実が生まれ続けるというもの。

 

今後も、どんどん新しいことが見つかり、正しいと思われていたものが否定される。つまり、科学だと思っていた対象が、突然、非科学のレッテルを貼られることがある。その逆もそうだ。

 

それならば、科学と似非科学の線引きはどうすればいいのか?

 

著者はこういう。

科学的であるかどうかは、

 

対象、内容ではなく、人間の姿勢によるのだ!

 

 

科学的な研究態度、非科学的な研究態度は、これなら分けられる。

そして、科学的な態度とは、修正による発展のことだ。

 

 

しかし、これは、ある対象について、科学と非科学の線引きなど簡単ではないことを意味する...

 

 

 

 

 

科学は生きている


科学の発展のさまは、生命の適者生存に似ている。たくさんの仮説が否定され、良さそうなものは長く残っていく。またそんな仮説すらも、いつ否定されるかわからない。

 

これらのことは、科学の説のどれも「不動の真理」ではないことを論理的に導く。科学的であればあるほど、100%正しいことなどないのだ。あるのは、どれくらい確からしいのかということだけだ。

 

権威主義は、生きている科学、つまり、科学の発展の可能性を殺してしまう。科学全体の信頼をも殺してしまう可能性がある。

 

「科学こそが、最も新しく、最も攻撃的で、最も教条的な宗教制度」という、ファイヤアーベントの言葉にも、著者は触れている。

 

 

著者自身が印象に残っている言葉としてあげているのが次だ。とても重要な見方だと思う。

 

「科学的真理とは、その時つける最善の嘘である。」

 

 

 

 

 

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まとめ

 

全体的にエッセイ調でとても読みやすい。専門である生命論的な視点も新しい。

 

また、著者の科学者としての姿勢と、生の人間としての姿勢との間の、葛藤のようなものも見える。その間を照らす、「人間の意志」というものに可能性を感じている様は印象的だった。

 

この「人間の意志」という論点は、かなりきわどい。オカルトやスピリチュアルに分類されることが普通だ。しかし、科学の先端というものは、著者が言うように非科学と接近するところにある。今後の科学に期待したい。

 

 

 

 

 

運命論を哲学する【書評・まとめ】 「運命」ってなんなんだ??

運命ってなんだ??

 

今回紹介する本は、「運命論」を哲学するというものだ。

 

この運命という言葉、誰でも気軽に使っていると思う。

 

「あれは、運命だった」

「運命によって導かれたんだ」

 

しかし、運命という概念、深く考えようとすれば、なかなか奥が深い。

 

自分自身の生活に密接であるこの概念を、哲学という手続きによって考え直してみる。これは、とても楽しく役に立つだろう。なぜなら、自分の人生にとても関わるものの見方だからだ。

 

今回の記事では、この本の肝となるアイデアをまとめてみる。

 

 

 

運命論を哲学する 著者について

 

 

入不二基善

分析哲学が専門。ウキペディアの彼の名字についての話が面白かったので、載せておく。

入不二基義によれば、入不二(いりふじ)という珍しい名字は、大乗仏教の経典『維摩経』に出てくる「入不二法門」(にゅうふにほうもん)の話に由来するという[3][4]。「入不二」(にゅうふに)とは善と悪、生と死、真と偽といった二項対立型の概念について、それら二つのものは本来ひとつのものである(不二)ということを知る、悟る(不二に入る)といった意味の言葉。

 

 

森岡正博

生命の哲学が専門。早稲田の教授。

 

 

 

 

 

入不二の「運命論」入門

 

この本では、入不二による運命論を様々な角度から考えていく。

 

ここでは、その基礎となる考え方をまとめられたら、とおもう。もちろん詳しくは、本書に進んでほしい。

 

彼の運命論とはこうだ。

 

「あるようにあり、なるようになる」

 

これが、彼の運命論で言いたいことだ。この一言の内実を少しでもわかるように、まとめたい。

 

 

とくに、次の考え方がキーワードである。注意してほしい。

 

「二つの側面が互いに終わりのない運動を続けていく動きそのもの」

 

 

 

 

 

現実の「現実性」

 

・唯一性 今目の前に起こっていて、体験しているこの現実のこと。中身のこと。

 

・全一性 今目の前にあるという中身にかかわらず、「現にあるものが現にある」ということ。つまり、構造のこと。

 

これら2つの性質から、現実の2種類の側面が浮かび上がる。

 

・相対現実 唯一性からは、現実の中身が入れ替わることがわかる。

・絶対現実 現実という構造は、中身にかかわらず絶対だ。

 

 

 

終わりのない無限運動

 

私たちのとっての現実とは、この相対現実と絶対現実が近づきあう運動そのものなのだ。これは、終わりがなく、無限運動である。

 

相対現実を、私たちは、「このようなものがある」と感じる。

絶対現実を、私たちは、「あるものがある」と感じる。

 

「このようなものがある」

「あるものがある」

 

これら二つの表現を同時に満たすものが、私たちの現実なのだ。

 

それが、「あるようにある」という言葉である。これが、「終わりのない動きそのもの」である現実(2つの側面を両立させる)を表す。

 

 

 

運命と時間

 

運命には、時間という側面もある。時間も立場によって、いろいろと議論はあるが、彼の運命論では、時間を「なる」という言葉との関係で扱う。

 

・ある これまで扱ってきたように「存在」のこと

 

・なる 時間制がある。

    ・中身 相対 「このようなものになる」

    ・構造 絶対 「なるものがなる」

    

ここでの、「なる」の構造的な絶対性は、過去・現在・未来を貫き、それらの差を無くすものだ。これを入不二は、ベタ塗りという言葉で表現する。

 

時間にも、二つの側面があるのだ。この二つの側面も、現実の時と同じように、お互いに終わりのない運動を続けている。よって、二つの表現を同時に満たすものとして、「なるようになる」と表現出来る。

 

 

 

ここにきて、「あるようになる」と「なるようになる」という二つの側面が用意できた。

 

ここで彼の運命論の図式ができあがる。

 

「あるようにあり、なるようになる」=「現実」=「運命」

 

 

 

 

運命と自由

 

さらに面白いのが、自由と運命の関係をも扱えることだ。

「すべては運命によって決まっていた、それならば、自由はないのか?」

 

では、自由とは運命にとって、私たちにとって何であるのか、も考える必要がある。

 

実は、「自由」にも二つの側面があるのだ。

 

・決断できること 「何かである」自由

・他の現実への開放 「何でもあり」の自由

 

そして、この二つの側面が、これまた、お互いの無限運動している。それが「自由」なのだ。ここで、「運命」との共通点に気づける。

 

つまり、「運命」とは「自由」はであり、「自由」とは「運命」でもある。

 

これが、彼の運命論の行き着く先だ。

 

完全に運命に従うのでもなければ、運命を完全に操れるものでもない。それらは、両立しているのだ。

 

 

 

 

 

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まとめ

 

「あるようにあり、なるようになる」

 

この結論を、本書では論理的に導いていく。さらに、これは出発地点でもあり、様々な角度から検証されていく。その過程である、「哲学する」をじっくりと楽しめるのがこの本だ。ぜひ、読んでみてほしい。

 

 

 

本記事が誰かの自由につながったのなら、私はうれしい。

 

 

 

 

「逆襲のシャア」を見て感じた、最近のアニメに足りないところ

機動戦士ガンダム 逆襲のシャア 感想

 

逆襲のシャアという作品をやっと見た。ガンダムは好きだったが、平成生まれの私は見れていなかった。

 

いざ見てみると、作り手の成熟を感じた。

 

ここに、現在多く溢れているアニメとは違う何かを感じた。

 

「やっぱり昔の作品っていいな」という印象だけにとどまらないように、この違和感を考察してみたい。

 

 

 

 

 

 

 

成熟とはなんだろう?

 

この作品のどんなところが、そう感じさせたのか。

 

単に古いから、その古さが現代のアニメとは違う印象を与えているだけでは?

 

つまり、成熟という言葉で、作品の評価を粉飾決算しているのだ。いずれにせよ、私自身のバイアスがかかりまくりな「成熟」ということではある。

 

ざっくりと言うなら、人間が描けている。キャラの振る舞い、言動、その一つ一つが人間くさい。

 

利己的ではなく、大義のために命をかけるという生き様。ここがとてもかっこいいのかもしれない。戦争、生き死にというテーマが背景にある分、人間のそういう部分を描きやすいのはあるのだろう。

 

・わかりやすさを押し殺したような

・ぐっと我慢するような

・それでも現実に向き合う葛藤

 

言葉にすれば、このような印象だろうか。

 

続いて、違和感の背景を考察する。

 

 

 

 

 

キャラ作りの背景

 

最近のアニメになんだか足りないことってなんだろう。

 

扱うテーマの深さ、鋭さ、新しさ、それに伴う理屈や世界観、確かに楽しめる部分もある。けれど、やや感じるのはキャラの魅力が薄いことだ。

 

なぜだろう?

「キャラ」的すぎるのだと思う。生の「人間」感が足りない。

 

これこれの要素を詰めておけば、人気が出るだろう、というようなまるでRPGのキャラ作りのような「計算」が前提にある。人間的な香りが薄い。

 

それぞれのキャラクターたちの役割、見た目などによって性格もカスタマイズされる。その結果、作品ごとに違いがあまり無い。

なんだ、またこんなタイプのキャラなのか、と感じてしまうことが多い。

 

見るものも、作り手側も、「はっきりとした、わかりやすい」キャラ付けを求めている。なぜそうなったかといえば、その方がマーケティングがしやすいからだ。つまり、資本主義という抗えない流れが、この背景にはあるのかもしれない。

 

登場人物が、商品になっているのだ....

 

 

登場人物とは、人間だ。

 

人間とは、本来、「商品」とは正反対の存在だったはずなのに...

 

こうした資本主義と人間について、さらに学びたい方は次の本がお勧めだ。記事でも紹介している。

 

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人間を描いてほしい!!

 

一言で言うなら、私は、「商品ではなく人間が見たい!!!!」のかもしれない。

 

自分が望むものだけを見る。この姿勢は、ただの消費者だろう。しかし、未知なる人間と作品を通して出会いたい。

 

つまり、そもそも他者とは、偶発性に満ちていて、けれどもなんだか引き寄せられるものだと思う。次の記事で詳しく書いている。

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計算を間違い、マニュアルを守れず、ふと何かが降りてくる。
それらはすべて知性の賜物である。
生きものの知性である。
今こそ天然知能を解放しよう。
人工知能と対立するのではなく、
意識の向こう側で、想像もつかない「外部」と邂逅するために。

 

 

 

 

  

作り手が成熟している

 

一方、「逆襲のシャア」の登場人物たちは、とても生々しい。もちろん、こちらもキャラであることに間違いはない。

 

しかし、その言動、振る舞いは、作り手の生の体験、感覚が色濃く生かされているように思う。彼らの振る舞いからは、「なんかわからないけど、勉強になるな、惹きつけられるな」という香りがする。

 

現在のキャラクターたちのような、マーケティング結果、計算結果のようなものとははっきりと違う。それら性格、キャラからは、商品の匂いがする。

 

私が感じた違和感を言葉にすれば、このようなものだろう。最近のアニメ作品などに感じていた違和感が、「逆襲のシャア」を見ることで浮かび上がったとおもう。

 

また、現在の作り手は成熟していない人が多い、と言っていいかどうかは微妙なところだ。成熟しているかいないか、という明確な基準はないし、それを調べる手段もない。根拠がないので、主張にはならないだろう。

 

 

 

 

 

作り手の叫び

 

今回考察したことは、次の記事とも関連が深い。ぜひ読んでみてほしい。

 

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フラストレーションが発散できるような映画には、
 
どうしてもその映画を撮って伝えたいことがあるんだ!!
 
これを表現せずには生きられない!!!
 
といった作り手の「人生をかけた叫び」が詰まっている

 

 

 

 

 

セリフの格調

 

次のようなセリフの数々も、なんだか大人だな、成熟しているな、と感じさせる原因だろう。実際に、シャアの設定年齢を聞いて驚いた人も多いはずだ。それくらい、セリフの格調が高い。

 

 

アムロ「貴様!?」

シャア「ギュネイを呼べ」

アムロ「なんでここにいるんだ!?」

シャア「私はおまえと違ってパイロットをやっているだけではない!」

アムロ「なんだと!」

クェス「あれがシャア・・・」

アムロ「俺たちと一緒に戦った男がなんで地球つぶしを!」

シャア「地球に残っている連中は地球を汚染しているだけの、重力に魂を縛られている人々だ!

クェス(あ、だから夫婦でもいがみあってられるんだ・・)

アムロ「そうかい!・・シャア!なんで・・」

シャア「地球は人間のエゴ全部を飲めこみやしない!」

アムロ「人間の知恵はそんなものだって、乗り越えられる!」

シャア「なら・・・今すぐ愚民ども全てに英知をさずけてみせろ!

クェス(そうだそれができないから・・・)

アムロ「貴様をやってからそうさせてもらう!」

 

 

アムロ「ふざけるな!たかが石ころ1つガンダムで押し出してやる!」 シャア「馬鹿なことはやめろ!」 
アムロ「やってみなければわからん!」
シャア「正気か!?」
アムロ「貴様ほど急ぎすぎもしなければ、人類に絶望もしちゃいない!」 シャア「うわぁぁ・・アクシズの落下は始まっているんだぞ!」
アムロ「υガンダムは伊達じゃない!!」

 

 

シャア「そうか。しかしこの暖かさをもった人間が地球さえ破壊するんだ。それを解るんだよ!アムロ!」
アムロ「わかっているよ!だから!世界に人の心の光を見せなけりゃならないんだろ!!」 

 

 

富野節が効いている。

dic.nicovideo.jp

 

次のような動画で、雰囲気を感じてみてほしい。

 


【MAD】機動戦士ガンダム 逆襲のシャア Char's Counterattack【AMV】

 

 

 

 

まとめ

 

作り手の成熟度が、「商品ぽくない」キャラを描きだしてくれる

 

 

 

 

 

 

 

 

その可能性はすでに考えた 【ネタバレ・感想・解説】探偵は「奇跡」を望む

普通の探偵じゃないミステリー

 

設定が新しいことで話題になった推理小説だ。著者は、井上真偽

(名前からして、論理学の香りがしますね)

 

どこが新しい点なのか、それはこの小説のタイトルが表している。

 

この小説の探偵は、「その可能性はすでに考えた」が決め台詞だ。このセリフは何を表すのか??

 

一風変わったミステリー作品として、オススメしたい小説だ。本記事では、本作品のテーマについてまとめる。

 

 

 

 

 

 

あらすじ

その可能性はすでに考えた (講談社文庫)

その可能性はすでに考えた (講談社文庫)

 

 

2016年度第16回本格ミステリ大賞候補に選ばれる[3]。「本格ミステリ・ベスト10」2016年版(国内部門)5位、『ミステリが読みたい! 2016年版』(国内編)5位、『このミステリーがすごい!』(2016年 国内編)14位、「週刊文春ミステリーベスト10」(2015年 国内部門)15位、「キノベス!2016」28位[4]など各種ミステリランキングにランクインしている。黄金の本格ミステリー(2016年)に選出されている。

 

探偵事務所で上苙とフーリンが話していると若い女性が訪れる。その女性・渡良瀬莉世は自分が人を殺したのかどうか推理してほしいと話し、幼い頃の記憶を語り始めた。

莉世は小学校に入学した直後、母親に連れて行かれ、新宗教団体「血の贖い(アポリュトローシス)」の村で集団生活を始めた。教祖と信者あわせて33人が暮らすその村は、周囲を高い崖に囲まれた山奥の秘境であり、脱出が極めて困難な刑務所のような場所だった。村に暮らす同じ信者の少年・堂仁が優しく接してくれることがうれしく、また〈拝日の祠〉にある祭壇の花や供物を取りかえる巫女の役目をこなす中で、隠れて祠で豚を飼うことで心の支えとしていた。「脱出するときは仔豚も一緒に連れていこう」などと堂仁と話していた折、村を地震が襲う。地震後、滝と川が枯れ、更に教祖は村の唯一の出入り口である〈洞門〉を爆破し塞いでしまう。〈禊〉が行われ、信者全員でお祈りを唱えていた拝殿で頭を伏せた信者の首を教祖が斬り回る姿を目撃し、自分の首が斬られる直前に堂仁に助け出された莉世はやがて気を失い、目覚めたときには祠にいた。その眼前には堂仁の生首と胴体が転がっていた。莉世と堂仁以外の信者は全員外から施錠された拝殿に閉じ込められ、また拝殿の閂は莉世には重くて動かせなかった。

これらの状況から自分が堂仁を殺してしまったのではないか、と考えるようになったという莉世。しかし一方で、堂仁の首を斬ったと思われるギロチンの刃も堂仁の胴体も重く、祠まで運べたはずはないという。当時、彼女は地震で足を骨折し松葉杖とギプスをしていたのだ。

堂仁は首を斬られた後、莉世を抱いて祠まで運んだのではないか。祠まで行く途中、堂仁の首を抱いていたような気がすると話す莉世に、上苙は〈奇蹟〉に違いない、人知の及ぶあらゆる可能性を否定し〈奇蹟〉が成立することを証明すると言い放つ。全ての可能性を否定することなど不可能だという大門老人や、フーリンの知人である中国人美女リーシー、元弟子である少年・八ツ星が提示した仮説をことごとく反証していく上苙だったが……。

 

その可能性はすでに考えた - Wikipedia

 

 

 

 

 

他のミステリー作品と異なる点

 

普通、探偵の役割は、事件の謎を解くことだ。事件の謎をとく仮説を掲示し、それを立証する。

 

ミステリー小説とは、その謎解き過程を楽しものが軸だろう。

 

しかし、この作品の探偵である上苙は違う。

 

彼の目的が、奇跡の存在を証明することなのだ。

 

今回の事件でも、彼は、本当に奇跡が起きたのだということを示そうとする。そのために、あらゆる考えられるトリックの仮説を自らリストアップし、その一つ一つが成り立たないことを立証するのだ。

 

 

 

 

 

仮説を解体する

 

そんな彼の奇跡の証明を邪魔しようと、何人かの刺客が送り込まれる。

 

それぞれが事件を解く仮説を掲示する。その仮説が成り立たないことを、上苙が証明できなければ、奇跡はないことになる。

 

あるトリックが成り立ちそうだという、可能性さえ示せればいい。つまり、事実どうこうよりも、可能性を残すことに焦点が当たっている。だから、かなり無理があるような、言い換えれば、面白いトリックが出てくる。

 

つまり、探偵 対 刺客たちの勝負は、圧倒的に探偵が不利なのだ。刺客たちは、わずかな可能性すら残せばいいのだから。

 

彼らが掲示した仮説に対して、上苙はその仮説が成り立たないことを示していく。

 

その時に使われる決め台詞が、タイトルだ。

 

「その可能性はすでに考えた」

 

一般的なミステリー小説の探偵とは、まるで役割が逆だ。謎を解体するのでく、仮説を解体する。そして、すべての仮説が成り立たないことを示し、奇跡の存在を示すのが彼の目的だ。

 

しかし、奇跡の存在を証明するには、すべての可能性が成り立たないことを示さなければならない。この「すべて」とは、つまり、無限ではないのか?と本書でも指摘されている。それに対する探偵の方針は、あくまでも特殊な条件下のもとでの事件であるため可能性は有限だ、ということなのだろう。

 

 

「無限」というテーマに興味がある人は、次の記事がオススメだ。

 

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悪魔の証明

 

このような類いの証明は、「悪魔の証明」と呼ばれる。

悪魔の証明とは、「ある事実・現象が『全くない(なかった)』」というような、それを証明することが非常に困難な命題を証明すること。例えば「アイルランドに蛇はいる」ということを証明するとしたら、アイルランドで蛇を一匹捕まえて来ればよいが、「アイルランドに蛇はいない」ということの証明はアイルランド全土を探査しなくてはならないので非常に困難、事実上不可能であるというような場合、これを悪魔の証明という。

悪魔の証明とは - はてなキーワード

 

 

 

 

まとめ

 

ミステリーとして、なにを求めるのか、という視点の新しさは楽しめた。

 

トリックも様々なものが登場し、考えさせてくれる。

 

最後の挽回も、物語として面白い。

 

 

たた、個人的に入り込めなかったのが、キャラ設定。

 

かなり、色のある設定なのだが、それを生かしきり、自然にさせる描写があまりない。中国語の表現や、知識も多いのだが、必然性がない。ストーリーに対して、キャラたちの良さが生かされないように感じた。

 

こうしたキャラたちに感情移入できるか、抵抗がないかで、もちろん全体のストーリーとしての評価が分かれるところだろう。