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アニメ どろろ 最終回 24話 【感想・ネタバレ】 百鬼丸はどんな道を進むのか?

記事の内容

ついに最終回を迎えたアニメ「どろろ」。

 

今回の記事では、最終回の感想、ネタバレをまとめていきます。

 

ネタバレになってしまうので、みていない方は注意です!

 

百鬼丸どろろの物語の行方とは??

 

 

 

 

 

 

百鬼丸は鬼神になってしまうのか?

 

弟である多宝丸との戦いが続く。お互いに敵意をむき出して、激しくぶつかり合う。

 

しかし、戦う中、百鬼丸はこれまで出会ってきた人間たちの幻影を見る。多宝丸を殺すチャンスがあったにも関わらず、彼は弟の命を取らなかった。

 

わからない…ただ…同じだ。お前も。お前は…人だ

 

 

さっきまでお互いに激しく怒っていた2人の心はどんどん落ちついていく。

 

命を取られなかったことに感染し、多宝丸もやっと正気を取り戻す。鬼神に言われるがまま、兄の目と一体化していた多宝丸。彼は、正気に戻り、兄に目を返そうとする。

 

その過程で、最後の鬼神が登場するが、あっさりと百鬼丸に倒される。

 

それでようやく、すべての身体が百鬼丸に戻ることになる。目を取り戻した百鬼丸

 

炎に包まれる中、彼は初めて自分の母親の顔を目にする。

 

さらに、自分の育ての親である寿海から、最後のメッセージをもらう。

 

よいか百鬼丸。生きろ。その血にまみれた身体に、鬼ではなく人を宿せ

 

 

  

百鬼丸は、母、弟、育ての親を炎の中に残しつつ、なんとか炎から逃げる。

 

 

 

 

 

 

百鬼丸と父親

 

城が焼け、全てを失った醍醐景光

 

彼はすべての始まりである地獄堂にいた。そこにやってくる百鬼丸

 

そこで、百鬼丸は自分の決意を言う。

 

もう殺さない。人の道を行く、と。

 

俺は人だ。あんたも鬼神になるな。人として…生きろ

 

 

 

自分の命をいいように利用した父親のことも、彼は許したのだ。

 

その様を目にし、父親は後悔のような回想をする。百鬼丸をこの国の領主として育てていたなら、どうなっていただろうか...と。

 

彼は、はっきりとは自らの心情を述べはしなかった。そのまま、戦での傷により、彼は息絶えることになる。

 

とうに、百鬼丸はその場を去っていた。

 

 

 

 

 

百鬼丸どろろ

 

全てを取り戻し、人の道を行くと決めた百鬼丸

 

これまでの鬼神へと至ってしまうような過去の自分との決別。自分をどん底へと追いやった憎き存在ですら、彼は許したのだ。

 

彼は文字通り、新しく生まれ変わった。ここからやっと、人生がスタートする。

 

百鬼丸は人生をスタートさせるために、旅に出る。どろろを置いて。

 

どろろ本人も百鬼丸と別れたとしても、新しい目標ができている。その目標のために、どろろも進んでいく。

 

近い未来にまた、どろろと百鬼丸が再開することを示唆して、このアニメは終わる。

 

これが未来の成長したであろう百鬼丸の姿だ。

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アニメ どろろ 24話より

 

 

 

百鬼丸の姿を追いかけるどろろの姿は、少女だ。目元が子供時代のどろろに似ている。

 

いくつかのエピソードで示唆されたように、どろろは女だったのだ。成長したどろろは、未来の百鬼丸とどうなっていくのだろうか。

 

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アニメ どろろ 24話より

 

希望のある終わり方だった。2クール分を使い、時間をかけて各キャラの深掘りができていたのが良かった。

 

 

 

 

 

総括

 

全体として、とても楽しめたアニメだった。アニメーションの質も高いし、物語の重さもあった。

 

アクションよりも、人の心の動きをもっと丁寧に描いて欲しかった。最終回もアクションシーンは多かったが、百鬼丸どろろの2人の関係をさらに深掘りしてほしかった。

 

このどろろという物語は、原作では未完である。

 

このアニメ作品としてどのような着地点をもたらすのか、それを描くために2人の関係を丁寧に描いて欲しかった。

 

あまり描きすぎず、今後の2人の未来に期待するという終わり方だった。これはこれで、いい終わり方だったと思う。

 

 

 

 

 

疾風怒濤精神分析入門 【書評・まとめ】 超わかりやすいラカン入門!!

記事の内容

 

皆さんは、精神分析学というものをしっているでしょうか?いくつかの体系がありますが、「ジャック・ラカン」の精神分析に注目してみます。

 

精神分析学は、臨床実践としての側面と、思想としての側面があります。

 

今回紹介する本の著者は、現代は速く結果が求められる時代だとしています。だからこそ、その速い流れに抗った地道な実践である精神分析学の役割は大きい。

 

個人的には、ラカン精神分析学の思想的な側面に興味があります。何故ならば、哲学や社会学などの書籍を読むと、彼の考え方、用語が出てくるからです。

 

今回の記事では、「疾風怒濤精神分析学入門」という本の内容をまとめます。ラカン入門に最適です。

 

 

 

 

 

 

心的次元の区分

 

心的な次元を3つに区分すると、見通しが良くなる。

想像界
象徴界
現実界

 

 

想像界

イメージの領域のこと。肉体は物理的なものだが、「身体」はイメージに含まれる。身体の機能が働くためには、自分の身体を鏡に映し、統一的なものとして把握する契機が必要。

 

 

象徴界

言語の領域。
意味のような想像的なものを作り出す、言語構造が象徴界
構成の元をシニフィアンという。

ソシュールが使う意味とは、やや違うことに注意。

シニフィアンそれ自体では、意味を持っていない。他のシニフィアンと連結することで、意味を持つようになる。

想像界は、象徴界によってコントロールされている。

<法> =「ルール一般」
象徴界においては、「言語=文化=法」

 

 

現実界

物理的な世界から、不可能性それ自体へ変遷。

象徴界の構造自体に根ざす不可能なものの全般が、現実的なものと呼ばれるようになった。

 

 

 

 

 

鏡像段階とは?

 

赤ちゃんには、自我はまだない。

自我が成立するためには、自分を対象化する契機が必要。

しかし、これが自分だというイメージは、自分そのものではない。

つまり、鏡像とは他者なのだ。
他者の存在がなければ、私たちは自我を見出すことができないのだから、自我は他者があってこそ成立するもの。

自分のイメージの正体は、他者のイメージにすぎない。だから、他者に自分を奪われるかもしれないという恐怖が生まれる。自分と他者の間の鏡像の奪い合いといえる。

 

 

 

 

 

他者と<他者>

 

他者は自分と同レベルな他者のこと。自分のイメージや友人など。
 
一方、<他者>は、絶対的な他者のこと。子供にとっての大人、神、世間など。そして、<他者>は<法>をもたらす。
 
<他者>とは、象徴界のもの。だから、言語の世界に入るとは、根源的な<他者>の経験になる。
 
私たちは、生まれてくる前に言語的な身分を与えられている。「〇〇の息子」など。だから、人間は最初から言語の世界に産み落とされることになる。
 
 
鏡像というイメージだけで、自我が保証されるのではない。母親という<他者>が保証してくれるおかげで、鏡像という他者が機能する。
 
母親は、人間が最初に出会う<他者>。そんな異質の存在に、人は生殺与奪の権利をにぎられている。この根源的な不穏な何かが、人間の本質にはあることになる。
 
無意識とは、言語的なもの。
 
無意識がシニフィアンによって構成されている以上、無意識はシニフィアンの<法>にしたがっている。
 
私たちは、同じ失敗を繰り返してしまう。このように、象徴界は一貫して働く。これをラカンは、「手紙=文字はつねに宛先に届く」と例えている。
 
 
 
 
 
 

<父の名>

 
赤ちゃんは、母親無くしては生きることができない。だから母の法に従属している。
 
ここから抜け出すために母の<法>とは異なった<法>が必要。それが、<父の名>。
 
赤ちゃんからしてみれば、母が<法>にしたがっているかどうかわからない。だから、母という<他者>に<法>を与える、もう1つの<他者>が必要。
 
父は母の言葉の中にしか存在しない。
 
父が機能するためには、その内実があってはいけない。父は、<法>を保証する以上のことをしないので、人間として死んでいる。
 
 
しかし、赤ちゃんにとっては「剥奪者としての想像的父」としてもはたらく。母が奪われるかも!
 
奪う父から、<法>を与える父に移って行く。
 
 
 
 
 
 

ファルス

 
 
「ファルス」意味的、文化的な抽象的男性器のこと。
 
ファルスとは、母親にとって欠如しているもの、つまり欲望の対象そのものを表す。だから、幼児はそのファルスの欠如を埋めるために、ファルスと同一化しようとする。
 
母親の要請に応えて行くことで、次第に自我を確立していく。しかし、それは、「母のための自我」になる。
 
お母さんにはファルスがないが、それは父が奪ったからだ、と父をライバル的な関係に捉えてしまう。しかし、ほとんどの人は大人になっても、想像的父への敵意を抱き続ける。「あいつさえいなかったら、成功したのに」など。
 
本来、ファルスの欠如とは人間世界の本質。想像的父とは、世界の「満たされなさ」の責を負わされた生贄のようなもの。
 
ラカンが言う去勢とは、<他者>におけるファルスの欠如を受け入れることそのもの。
完璧な母親という幻想や、「誰かのせいだ」という幻想を手放すこと。
 
幼児は、父親のようにファルスを持ちたいという理想を抱くからこそ、父に同一化し、<法>を受け入れる。
 
エディプスコンプレクスとは、主体が想像的罠から脱し、象徴界での生を安定させるプロセス。
 
エディプスコンプレクスの二本柱が、<父の名>とファルス。
<父の名>は<法>を統御するシニフィアンであり、ファルスは欲望やセクシャリティを標準化するシニフィアン
 
 
 
ずいぶん、男性本位な議論に見える。それは、ファルスという男性的なものを出発点に、男女まとめて議論しているからだ。ファルスから離れた議論は、70年代のラカンにおいてやっと議論されることになる。
 
 
 
 
 
 

「死への享楽」と「対象α」

 
現実界とは、イメージでも言語でも扱えない不可能な領域のこと。
象徴界の穴そのものといえる。
 
精神分析の実践とは、人間が象徴界によって現実界を取り扱うことを可能にすることである。
 
欲動とは、言語の<法>をはみ出すような過剰なもの。現実界のものといえる。
 
享楽とは、快楽を超えた気持ち良さ。<法>という安全装置を逸脱したもの。
 
人間には、根源的に死への享楽がある。
 
<もの>の体験とは、原初的な満足体験。しかし、それは一度きりのもの。
 
エディプスコンプレクスは、子供を享楽から遠ざける。<法>をもたらすのだから。
 
<もの>が失われ、現実界に追いやられたために、享楽は不可能なものになってしまった。
 
<もの>の残滓を、ラカンは「対象α」と名付けた。失った<もの>の享楽を取り戻すための指針として働く。
 
欲望は<法>に従い、欲動ははみ出す。
 
象徴界の<法>に従うことで、欲望の<法>をないがしろにしてはいけない。
 
欲望と対象αは、象徴界現実界の結節点になるという点で、同じ役割を果たす。
 
 
 

ファンタスムとは、象徴界現実界の結びつきの形。

未来への希望(<もの>の再発見の欲望)を生み出すとともに、現在の満足(対象αの享楽)を生み出す。

人生の指標としてのファンタスム。

しかし、ファンタスムは幻想に過ぎないが、毒にもなる。

 

ファンタスムとは、その人の生き方を根本的に期待していた枠組み。それまでのファンタスムで理想的存在に祭り上げられていた対象から自由になれ。

 

精神分析とは、理想に苦しめられなくなることである。

 
 
 
 
 

まとめ

 
人間の心的な次元の構造を把握する手段として、ラカンの概念は重要だと思う。検証不能な側面はあるが。
 
これら概念を抑えることで、精神分析の概念を用いた思想をよみとくことが、もっと楽になると思う。
是非読んでみてほしい。
 
 
 
 
 
 
 
 

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それでもデミアンは一人なのか? 【感想・ネタバレ】 世界の拡張は加速! 待望の新シリーズ!

記事の内容

 

森博嗣の最新シリーズの一冊目「それでもデミアンは一人なのか?」の内容をまとめます。

 

デミアンとは一体何者なのか?

「一人なのか?」という問いかけの意味とは?

これまでのシリーズとはどんな関係があるのか?

森博嗣の未来感のさらなる拡張は?

 

まだ読んでいない方は、ネタバレが含まれるので注意してください!!

 

ファンなら必ず楽しめるある要素が含まれています...

 

 

 

 

 

それでもデミアンは一人なのか? 森博嗣

 

 

 

この表紙かなり好きです!!

 

 

つねにベストは更新される。
最新WWシリーズ始動!

カタナを帯びた金髪碧眼の戦士、デミアン。 記録上は存在しない特殊兵器。
楽器職人としてドイツに暮らすグアトの下に金髪で碧眼、長身の男が訪れた。日本の古いカタナを背負い、デミアンと名乗る彼 は、グアトに「ロイディ」というロボットを捜していると語った。
彼は軍事用に開発された特殊ウォーカロンで、プロジェクトが頓挫した際、廃棄を免れて逃走。ドイツ情報局によって追われる存在だった。知性を持った兵器・デミアンは、何を求めるのか?
 

 

 

 

シリーズを読んでいる人ならお馴染みの「ロイディ」というキャラクター。彼が最新シリーズにどう絡んでくるのか...

 

拡大を続ける森博嗣の世界観。毎回、知的興奮が滾る。

 

著者である森博嗣については、こちらの記事へ。

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デミアンとは何者なのか?

 

まずこの小説を読み始めて驚くのが、デミアン視点の物語ではないということ。

 

デミアンが主役として進むのかと思っていた。デミアンの設定を聞いて、ファンなら思い浮かぶのは、「ヴォイドシェイパ」シリーズのゼンのようなキャラではないだろうか?

 

しかし、今回のシリーズは、デミアンではないとあるキャラクターの視点で話が進んでいく。(一体誰の視点で話が進むのかが、最大のネタバレになってしまうか?)

 

 

デミアンのどこが特殊なのかが、今作のポイントになる。

 

デミアンのボディには、ウォーカロンとしての脳と、人間の脳が共存しているのだ。だから、その構造の先駆的モデルである「ロイディ」のボディを探している。

 

だから、タイトルのデミアンは一人なのか?」という問いが浮かび上がってくるのではないか?

 

ここで、ほかに二人の重要なキャラがいる。

 

ドイツ情報局のヘルゲンと彼の妹のミュラだ。

 

物語の終盤にそのヘルゲンが殺されていしまう。そして、その死体から首だけが持ち去られてしまう。

 

持ち去った人物こそ、デミアンだった。

 

デミアンはなぜヘルゲンの首を持ち去ったのか?

 

ヘルゲンの体に脳はなく、彼の脳こそデミアンのボディにあったのだ。ヘルゲンの死体に脳がないことがばれないように、首だけを持ち去ったのだ。

 

デミアンとヘルゲン、二人だと思っていた存在が実は一人だった。

 

しかし、話はここで終わらない。

 

ヘルゲンの妹のミュラ、彼女の体にも脳がなかったのだ。

 

つまり、3人だと思っていた存在が実は1人だった。その1人こそ、デミアンという存在だった。

 

この2段階のどんでん返しこそ、この小説の山場だろう。SF作品ならではの仕掛けである。

 

 

人間というものがあるから、人間でないものが生まれる。

 

 

 

 

 

 

トランスファとデミアン

 

森博嗣作品の中で、「トランスファ」という概念がある。詳しくは、「wシリーズ」を読んでみてほしい。

 

簡単に言うならば、電子空間に広がる知能としての自律したユニットである。

 

そのトランスファの概念が、今作ではより考察されている。

 

トランスファというものの存在が、初めて理解できたと直感した。すなわち、人間の脳内をネット上に展開したものなのだ。ロボットに人間の脳を載せる代わりに、このネット空間全体を頭脳にしてしまう。そうなれば、ネットとインタラクティブな関係にあるあらゆるメカニズムが、ロボットの装備となる。否、ロボット本体が存在しなくても良い。その究極の形態こそが、トランスファという新しい人工知能だったのだ。コンピュータから進化したのではなく、人間の頭脳から派生したものといって良い。

 

こうした世界における神経信号が、トランスファだったのだ。それを人間が、自分たちの頭で理解しようとして、「トランスファ」と呼んだにすぎない。「名前」というものを人間は「理解」と捉えるが、人工知能には一過性の「処理」でしかない。

 

 

 

デミアンという存在は、人間がデザインしたものではなく、トランスファがデザインしたものではないか、と考察される。この転換も、この作品のテーマが詰まっていてとても面白いところだ。

 

「メビスウの帯」という発想もワクワクする。

 

 

僕が想像したのは、裏返しの人間、裏返しの肉体だった。  人間の肉体は、皮膚が外側にあり、その内部に臓器や筋肉や骨格がある。

 

デミアンは、肉体は一つであり、内と外がある。その肉体は、こちらの世界に属していて、周囲からも存在を認識されている。しかし、彼の思考は、電子空間に向かって開いている。彼の頭の中は、実は躰の外側であり、電子空間のある領域が内側になる。

 

内側と外側の連続は、メビウスの帯のように 捩じれをイメージさせるが、そうすることでしか、実空間と電子空間に同時に存在することはできない。

 

こちらから見れば一人の青年だが、むこうから見れば、一人ではないかもしれない。姿というものが、そもそも作られたデータでしかない世界なのだ。あちらから見れば、実体の青年は、単なる影にすぎないだろう。

 

 

個体、そして、脳と身体。

これらに関しては、現状でも様々な議論がある。

 

個人的には、とくに心と脳の関係を扱う「心脳問題」に興味を持っている。知能、人工知能に関しては、次の記事がおすすめだ。

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本作最大の見所、ネタバレは??

 

本作の語り手、つまり主人公は誰なのか、ということだ。

 

グアトとロジャという男女のペアが主役になる。

 

この2人の正体こそ、wシリーズの「ハギリとウグイ」なのではないか?はっきりとは明言されないものの、様々な状況からそう推測できる。

 

これすらも、作者のミスリードの可能性も否定できないが(笑)

 

wシリーズのあの2人のその後の物語としても、ファンはとても嬉しいところだろう。

 

 

 

是非読んでみてほしい。

 

 

 

 

 

 

 

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メディアが報じない年金問題のリアル ガチで自分の頭で考えないとやばい時代 【橘玲を参考に】

記事の内容

 

年金問題が世間を賑わせている。

 

そんな中、とある衝撃的なツイートが目に入った。その内容がとても重要だと感じたため、こうしてブログにて、少しでも多くの人と共有したい。

 

作家の橘玲氏のツイートだ。

『お金持ちになれる黄金の羽根の拾い方』『臆病者のための株入門』、『言ってはいけない—残酷すぎる真実』などが有名かと思う。

 

年金問題を、決して受け流さないために是非読んでみてほしい。

 

 

 

 

 

橘玲氏の年金問題に関するツイート

 

こちらのツイートを見て、とても重要なことが書かれているなと感じた。だからこそ、こうしてブログにて、記録し発信しておきたい。

 

きちんと書くべきこと、主張すべきことを述べてくれている。彼のまっとうなリベラルとしての信条が見える。私達若者世代としては、とてもうれしい。

 

 

 

 

 

 

私はメディアの報道がすべて歪んでいるとは思いませんが、年金問題については「公正な報道」はあり得ません。「現在の賦課方式では若者や将来世代が多額の損失を被るのだから(事実)、高齢者世代は年金の一部をあきらめよう」と一面に書いたら、その瞬間にその新聞社は倒産します。
 
これはたんなる比喩ではなく、2002年に某経済紙が一面特集で就職氷河期の若者を取り上げ、「正社員の雇用を過剰に保護していることが問題では」と書いただけで新聞社には抗議の電話が殺到し、恐れをなした経営幹部は「働き方改革」の企画を封印しました。
 
これは特集にかかわった記者から直接聞きました。新聞社の「コア読者」は団塊の世代なので、彼らの既得権に触れるような記事はいっさい書けないのだそうです。団塊の世代は当時50代で「リストラ」不安が広がっていました。いまは70代で「年金不安」に変わりました。
 
つい最近、この話を某週刊誌の記者にしたところ、そのときは面白がってくれたのですが、後日、「やっぱりあの話は載せられません」というメールが来ました。「ただでさえ減っていく読者を、さらに減らすようなリスクは冒せない」のだそうです。
 
若いひとたちは、自分たちがこのような社会で生きていくことをちゃんと考えた方がいいです。

 

 

 

財政審議会が「年金水準低下」「自助」を削除したのは政権への忖度だと批判されていますが、そう批判する新聞も高齢者=年金受給者の怒りを買わないように細心の注意を払って忖度しています。
 
「このような年金制度のまま放置した高齢者世代にも責任がある」「一方的に負担を押し付けられる若者がかわいそうだ」「貧困高齢者対策は高齢者内の再分配でやればいい」(すべて正論)などと書くのなら、メディアを見直します。

 

 

そもそもいまの若者は年金制度に対してなんの発言権もなかったのだから、これからの人生で数千万円もの負担を押し付けられるのは著しく不公平です。真っ当なリベラルは、この世代間差別を批判しなければなりません。

 

 

 

 

続けて、橘氏のお金や働き方に関する記事を紹介する。どれも、自分で考えるために勉強になる記事である。是非読んでみてほしい。

 

 

 

 

 

 

そもそも年金だけで暮らせるわけがない

 

www.moneypost.jp

 

「老後問題」の本質は、長寿化で「老後」が長くなり過ぎたことだ。

 

20歳から60歳まで40年間働きながら払った年金保険料だけで、サラリーマンの夫と専業主婦の妻が100歳まで、2人分で計80年間、年金だけで暮らせるなどという法外な話があるはずはない。

 

 

 

 

 

お金と働き方

 

business.nikkei.com

 

 

かといって年金制度には頼れません。現在の社会保障制度を、団塊世代後期高齢者になる2025年以降も維持できると考える専門家はいない。65歳の支給開始年齢基準が大きく引き上げられるか、受給額がかなり減額されるか、あるいは「インフレ税」によって国の借金がチャラになるか。「何らかの調整はある」と覚悟しておくべきです。

 

 

老後の暮らしを支える富の源泉を金融資本に頼るのではなく、「いかに長く働いて、老後を短くするか」という発想に切り替えるのです。

 

「80歳まで現役」という考えにシフトできれば、定年退職以外の選択肢が広がります。例えば40歳のビジネスパーソンなら「3年後に辞めて起業する」「副業をいくつか試してみる」といった未来が開かれるわけです。考えてみれば、終身雇用における定年退職は、「超長期雇用下での“強制解雇”制度」。会社が生涯の面倒を見てくれるわけではない。ならば、対策は早く立てるに越したことはありません。

 

 

今後はますます専門的な知識に高い価値が認められ、知識社会化が進む。だからニッチな領域で構わないので、自分の好きなこと、得意なことにフォーカスして専門性を磨くことが重要です。生涯現役社会では、「仕事は苦役」のマインドではやっていけません。好きなことならばどれだけ頑張っても苦にならないし、人的資本のすべてを投資できる。ただし、一つの会社の中でしか評価されない知識やスキルの習得はムダ。「今の会社を離れても価値を持つ専門性」の習得が重要です。

 

 

 

 

 

 

まとめ

 

・大手メディアの裏を読む

・金融リテラシーを高める

・働き方を見直し、働ける期間を増やす

・そもそも「好き」なことじゃないと、一生働いていけない

・「好き」で稼ぐことができないか頭を使う

 

 

今回の記事をまとめてみて、改めて「自分の頭で考えること」の重要性を感じた。

 

ますます、社会はばらけ先が見えなくなる。つまり、国に頼りっぱなしや、集団に合わせっぱなしで生きるのはリスクが高くなる。

 

思考停止はやばい!!!!

 

自分の人生を自分で設計するしかない。

 

そのためにどうすればいいのか?

 

仕事という面で言えば、まずは金融に関するリテラシーは必須だろう。そのために、基礎的な教養がますます重要になる。

 

そして、教養は考えるための大事な道具だ。人間は、道具がなかれば思考はできない。個人的にも、「考えることの重要さ」「教養の重要さ」は強調しておきたい。

 

interaction.hatenadiary.jp

 

 

 

橘玲氏の著作で、金融リテラシーや働き方を勉強するのもいいと思う。(画像クリックでAmazonへ飛べます!)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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ヒトでなし 金剛界の章 京極夏彦 【ネタバレ・感想】 人は何によって救われるのか?

ヒトでなし 金剛界の章 あらすじ

 

今回の記事では、京極夏彦の「ヒトでなし 金剛界の章」という本を紹介する。

 

 

あらすじ

理屈も倫理も因果も呑み込む。この書は、「ヒトでなし」の「ヒトでなし」による「ヒトでなし」のための経典である――。娘を亡くし、職も失い、妻にも捨てられた。俺は、ヒトでなしなんだそうだ――。そう呟く男のもとに、一人また一人と破綻者たちが吸い寄せられる。金も、暴力も、死も、罪も――。犯罪小説であり思弁小説であり宗教小説であり諧謔小説であり、そしてなにより前代未聞のエンターテインメント小説!

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ヒトでなし: 金剛界の章 (新潮文庫)

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宗教小説?


内容は、ジャンル分け不能なほどカオス。

ある1人の男を取り巻く様々な人間模様が描かれる。

 

そこで描かれるのは、人の心の危うさ。その危うさを、主人公の男は自身の理屈をこねながら斬っていく。

 

京極作品らしく、とても理屈ぽい男だ。

 

それら理屈により、男、そして周囲の人間の心はどう変化していくのか?そして、そこに、「死」というテーマもかかわる。

 

宗教小説としての特色が浮かび上がってくる。

 

まるで、仏陀が悟りへの道を進む過程を見せられているようだった。

 

もともと、普通な人としての感情や欲が薄い主人公の男、尾田。

 

そんな彼が、娘を失い、家族を失う。

 

生きることにも死ぬことにも興味がない尾田は、他人の大きな悩みを容赦なく切っていく。

 

他人に対する欲がない尾田の言葉は、生きることに病んだものたちの目を覚ましていく。尾田本人に、他人を救うつもりはまるでないものの、確かに彼の言葉で救われる者がいたのだ。

 

 

 

 

 

「人でなし」という言葉

 

「人でなし」という言葉は、本来マイナスなイメージで使われる。

 

意味は、人ではないということか?

 

それならば、「ヒトっぽい」とはどういうことなのだろう?

 

そして、「ヒトっぽくない」者は、いけない存在、悪い存在なのか??

 

いや、人ではないことのメリットの例もたくさんある。

 

ヒトっぽくない存在で、最も有名な存在こそ、キリストや仏陀などだろう。彼らの存在は、数千年を経てまで、多くの人の心を癒している。

 

人ではないのに、人を癒すことができる。

人ではないからこそ、人を癒すことができる、というべきか?

 

 

 

 

 

コミュニケーション、感情

 

ここで、コミュニケーション、感情の本質について抜き出しておきたい。

尾田の理屈ぽさと「人でなしさ」がかいま見える。

 

コミュニケーションってのは、取れないものなんだよ。気持ちなんてものはいつだって一方通行だ。他人の発するメッセージを勝手に解釈して泣いたり笑ったりしているだけだ。

 

 

「世間でもいいよ。自分と、自分以外がいるという状況こそが、まあ社会だの世間だのってことなんだろ。社会性ってのは、要は集団の中で 巧 く立ち回れるかどうかってことでしかないじゃないか。巧く立ち回るためにポジとネガを粉飾して、複雑で大仰なもんに仕立てる──それが感情だよ」

 

 

感情がないから表現できなかったのではなく、表現すること自体が感情そのものなのだ。

 

 

お前、社会を 棄てただろと荻野は言う。 「だから感情も棄てちまったようなもんなんだよ」  それはそうかもしれない。快や不快はある。でもそれだけである。後は──。  どうでもいい。

 

 

 

 

 

 

「俺」が消える

 

仏教では、自我へのこだわりを捨てる。そのために、様々な修行をする。

 

私という塊も、みな実体はなく、幻想である、と。この世に絶対的で確かなものはなにもない。ましてや、個人のこだわりなど、世界のありのままを見るのには邪魔である。

 

尾田という男にとって、最後まで残っていた「俺」という感覚。

 

それは、死んでしまう前に触れた娘の手の感触だった。

 

しかし、それすらも、消えることになる。

娘の命を奪った殺人者と対峙し、尾田は涙を流す。「俺」という形がやや戻ってきたのだ。

 

しかし、娘の命を奪った者と会話するうちに、尾田は変化する。

 

涙を拭うとともに、娘が握った手の感覚すら消えて無くなる。

 

目の前の殺人者のことなど、どうでもよくなってしまうのだ。それは、「俺」のさらなる消失を意味する。

 

まさに、「俺」が生まれ変わった瞬間と言えるか。後に残ったのは、「俺」でもあるけど「俺」でもない。そんな存在だろう。

 

「空」の思想を感じる。

 

 

この過程を目にしていた、若き修行僧たちはみな、尾田に対して頭を下げる。このシーンこそ、1人の「悟者」の誕生なのだろう。宗教小説の山場として、震えるものがあった。

 

 

 

この小説はシリーズになるようだ。つまり、続編がある。

 

「俺」を捨てた男、尾田の今後の物語に、とても期待したい。

 

 

 

 

 

 

 

 

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【堀江貴文】 国が溶けていく 格差拡大は避けられない どう生きる?

記事の内容

 

グローバル化の本質とは?

・資本主義の本質とは?

・賃金格差はどうなっていくのか?

・幸せに生きる方法とは?

 

これらをテーマに、堀江貴文氏が語っていたことが有益だった。彼はこれら事実を元に、未来を分析するのがうまい。とても、理にかなっている考え方だと思う。

 

今回の記事では、彼の論点をまとめ、いくつか補足したい。

 

 

 

 

 

 

 

堀江貴文 国は溶けていく 格差拡大

 


堀江貴文 国は溶けていく!!格差拡大「大竹まこと対談」

 

 

こちらの動画から、話を引用させてもらう。

 

 

国は溶けていく。

 

 

グローバル化により、世界的に情報が共有される。

 

そうなると、なんで日本人はケニア人より給料高いの!?と疑問が起こる。なぜ同じ人間なのに賃金違うの?となる。

 

だから、国境を越えて、賃金は標準化される。

 

現在の世界的な格差は大きい。この世界の格差は小さくなっていく。逆に、日本内の格差は広がる。

 

 

 

 

お金だけを見て格差だと考える方がおかしい。

お金持ちより、時間待ちの方が幸せかもしれない。

 

幸福には色んな要素がある。お金だけを見て、格差だと騒ぐのは、それこそ拝金主義だ。違和感を感じる。

 

なにに幸せをおくのか?

フォーカスの仕方次第。

みんなと同じことをやろうと思ったら難しい。

 

 

 

 

 

 

グローバル化の本質と資本主義

 

堀江氏の指摘はもっともだと思う。

 

なんで、発展途上国と比べて、先進国だけが豊かな暮らしをしているのか?

 

この差に、絶対的な理由はない。

 

ゆえに、その差はどんどん薄まっていく。実際に、先進国、発展途上国という二分が通用しなくなるほど、国同士の差は小さくなって来ている。

 

これは、一部で話題になった本、「ファクトフルネス」でも触れられていることだ。

 

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そして、問題なのは賃金である。

 

グローバル化により、徹底的な資本主義が進む。

徹底的な資本主義とは何か??

 

それは、全世界の人と価格競争をしなければならないということだ。

 

これまでは、日本だからということで、日本人の企業が守られていた。しかし、どんどん国という枠がうすくなる。

 

それを象徴する流れがGAFAなどの巨大多国籍企業だろう。彼らが流通させるプラットフォームにより、国の差がなくサービスを受けることができる。

 

これにより、日本という枠に守られて来た、日本の大企業の活動が維持できなくなる。

 

とくに、賃金面で、日本だけ特別視されることがなくなっていく。真のグローバル化により、遠く離れたケニア人と日本人の労働力が平等に比較されることになっていく。よって、現在の日本の賃金レベルを維持できないことは明白だろう。

 

この分析と、現在の日本人の賃金が下がり続けていることの関係については、さらに分析をしたほうがいい。

 

(けれど、統計不正が発覚したこの日本という国において、データは信用できるのだろうか?)

 

 

 

 

 

コモディティ化

 

次の記事では、そうしたグローバル化のせいで進む「コモディティ化」という概念に焦点を当てている。今後の働き方を考える上で、絶対に必要な視点だ。

 

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これまでの「人材マーケット」では、資格やTOEICの点数といった、客観的に数値で測定できる指標が重視されてきた。だが、そうした数値は、極端に言えば工業製品のスペックと何も変わりがない。同じ数値であれば、企業側は安く使えるほうを採用するに決まっている。

 

コモディティ化した人材市場でも、応募者の間で「どれだけ安い給料で働けるか」という給料の値下げ競争が始まる。

 

 

勉強をしても、高学歴であっても、技術を身につけたとしても、社会に出てしまえば買い叩かれる。なぜなら、個人であまり差がなく、コモディティ化が進むからだ。さらに、今では日本でも、本当の意味での資本主義が進んでいる。そうなれば、「より安く雇いたい!!」と雇う側が思うのは当たり前である。 

 

 

 

 

 

どこに幸せを置くか?

 

賃金が少なくなっていくことは避けられない。

ならば、幸せに生きることは不可能なのか?

 

いや、幸せをどこにおくのかが大事だという。本来、お金面での格差がそのまま、幸せの格差にはなるべきではない!

 

お金以外の自分が幸せに生きれる価値観を持つことが大事だ。

 

しかし、現代人のほとんどは「拝金主義」である。この盲目的とも言える拝金主義が、賃金格差がどうしようもなくなることにより、破られる日が来るのだろうか...?

 

破ることが、あなたの幸せへの一番の近道なのではないか?

 

いや、けれど、人の欲望の凄さは侮れない。他者よりも裕福な暮らしを望む。その欲望こそが、資本主義を巨大化してきたのだから。

 

お金以外の部分に幸せを見つける。言葉で言うならば簡単だ。しかし、強固にこの価値観を自分で持てている人は少ない。

 

その自分の価値観をより確かなものにしてくれるものの1つが、知恵や教養だと思う。知恵や教養こそ、遠回りかもしれないが、あなたの幸せの形を確かなものにしてくれるのではないか?

 

私は、教養を重要視している。

「教養とは自分がわかることだ」と定義したい。

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堀江貴文氏の次の本などが、さらに参考になるかもしれない。(画像クリックでAmazonへ飛べます!)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

本記事が誰かの自由につながったのなら、嬉しい。

 

 

 

就活という"あなた"を消す儀式 【商品化される僕たち】

記事の内容

 

今回は、就活と面接について考える。

 

就活というイベントの意味をより根本的に考え直してみたい。

 

そのために、

人間性の放棄

・商品化

・人が人を評価するということ

 

などのテーマに注目したい。

 

もう一度、本質を考えてみることで、就活について何か悩みがある人の役に立てればと思う。

 

就活の渦中にいれば、落ち着いて考え直すことは難しいかと思う。けれどこの記事が、あなた自身と就活を一歩引いて考えるきっかけに少しでもなったなら嬉しい。

 

 

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商品化されていく「私」...

 

私たちは、会社の労働力になるために就活をする。

 

それでは、そもそも労働力になるとはどういうことだろうか?

 

1番大きな特徴は、自分が商品になるということだろう。

 

商品の特徴とは、数値で値段をつけられること。

他の商品と、入れ替え可能になること、などだ。

 

なんと、そこでは人間の個性は邪魔になるのだ!!

 

 

それでは、逆に「人間性」を伸ばすこととはなんだろう?

 

私は、リベラルアーツ、教養を重要視してきた。深い学問的な考え方、知恵を身につけることの重要性を意識してきたつもりだった。なぜならば、教養とは「私らしさ」を伸ばせるものだと思うからだ。

 

自分であれこれやってきて、実感したことこそ、「教養とは自分がわかることだ」というものだ。

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自分自身を見つめる作業、自分の「好き」を深掘りする作業、そこで出会う歴史的に著名なすごい人物たち。彼らの知恵との相互作用の中で、いろいろな私がまさに分かってきた。

 

たった1つの個人である私があるのではなく、様々な人と交流する中で出てくるたくさんの私があるという「分人」という考え方も納得できた。

 

 

しかし、待っていたのは就活という儀式。

 

そこで求められるのは突出した個性ではない。面接官が気にいるようなストーリー、性格、キャラだ。

 

まるで、RPGのキャラにでもなったようだ。面接官の好きな設定にされてしまう。

 

そうした、設定可能性というものこそ、まさに商品だ。そこで、設定される能力は、計算可能で入れ替え可能だ。

 

入れ替え可能とは、「あなたの代わりはいくらでもいますよ」ということだ。

 

まさに、「個性、人間らしさ」とは真逆である。

 

こうした、社会的なキャラ付けが得意な人は、社会を生きていくのがうまいのだろう。もちろん、面接で思い悩む必要もない。(しかし、そんな彼らだって社会に馴染めば馴染むほど、「あなた」が消えていく危険性はある)

 

けれど、それら社会に馴染めず、どうしても納得できない人だっている。そんな人は、就活、面接という儀式の空虚さに意味を見出せない可能性がある。

 

自分の個性を伸ばしてきた人たち。一見、変わっている人、変人とも言われることも多い。そんな彼らの人間らしい個性は、面接という場では生かされないことが多い。 本来、人間にとって一番重要な人間らしさが、面接という儀式では邪魔になる。

 

なんと残酷な儀式ではないか?

 

 

 

 

 

AIに取って代わられる人材の再生産

 

現在、AIの発展が進んでいる。そんな社会では、入れ替え可能な労働力こそ、AIに取って代わられる可能性が強くなってしまう。事務作業などの単純な知識処理などが代表例だ。

 

しかし、日本の教育は、入れ替え可能な人材を生産し続けている。三島由紀夫は、学校教育を「空っぽのあなたを作り出す装置」と呼んだ。どうして、こんな現状が放置されているのか?

 

なぜならそこには、就活という儀式 (君を商品にするぞ) という1つのゴールがあったからなのだ。

 

労働者の生産のためにうまくできているものだな、と思う。けれど、このままで日本社会はAI時代を乗り切れるのか??という根本的な疑念がある。これについては、この先の進展を見守るしかない。

 

 

AIで置き換えられるような人間の劣化を、落合陽一宮台真司らは危惧している。

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AIと生命の違いについては次の記事も参考になる。

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そもそも正当な評価なんて不可能

 

ここからは、人事の方に物申したいというよりも、面接がうまくいかない方へ向けて書きたい。

 

面接でうまくいかなかったからといって、あなたの存在が否定されているわけではない。あまり気にせず、安心してほしい。とはいっても、面接で落ち続ければ、やはりメンタル的にしんどいものだ。そんな方に、少しでも役立てるように書ければと思う。

 

そもそも、面接官は正当な評価などできないのだ。この根本的な原理はしっかりと押さえておくべきだろう。

 

人は人を客観的に評価できない。

 

これを示す様々な心理学的な研究成果も出ている。

 

人は、人と接する時、様々な心理的なバイアスからは逃れられない。

 

たとえば、ハロー効果というものがある。

 

・高学歴だから

・実績があるから

・イケメン、美女だから

 

これらどこかが優れていると、その人の他の能力まで優れているように見えてしまう。本来は、ある一点が優れているからといって、他の能力まで優れているとは限らない。

 

しかし、人事はプロなのだから、そういった心理的なバイアスも抑えることができるのではないか?、と思う人もいるかもしれない。

 

いや、違う。

 

人は自分の心理的なバイアスに気がつくことすらできない。自身の意識は、自分の無意識的な判断を、粉飾決算するのだ。私はまともに判断できている、と。

だから、自分では気づくことすらできない。

 

 

 

これらを裏付ける記事を二つ紹介する。

 

認知バイアスのヤバさと面接官のいい加減さについてだ。

 

 

 

認知バイアスのヤバさ

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他者への認知バイアスを必ず持ってしまうのが人間

自分の意識では、無意識くんの仕業に気づけない→認知バイアスを修正できない

他者の客観的な評価は不可能→実力なんてほとんど見てもらえない→では何が大事か?→錯覚資産だ

 

知能が高く、有能な人であっても、自分の無意識が、自分の知らないところで、勝手に脳内の評価値を書きかえるのを、防ぐことはできない からだ。

 

私の意識は、無意識を押さえつけることができない。そんな認知バイアスだらけの人という生物。彼らが、社会を作っているわけです。となると、人間の集団である社会こそ認知バイアスで汚染されまくっている。

 

 

 

 

・面接官のいい加減さ

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それなら、面接の合否の最も大きな要因は何でしょうか?

 

それは、好感度です。

 

面接官への好感度がいかに高いかで決まってしまうのです。

 

面接官とはいえど、人の能力を客観的に測ることは不可能です。これはあらゆる心理学的な実験から明らかになっています。つまり、人が人と接する際には、必ず認知バイアスが働いてしまうのです。そして、人を評価する際に最も大きな認知バイアスこそ、好感度なのです。

 

 

 

面接という場のいい加減さが伝わっただろうか?(逆に、だからこそ、テクニック的に対策できる、と考える手もある)

 

 

 

 

まとめ

 

就活という「あなた」を消す儀式。

これは、本来相当おかしなものだ。

 

上から目線で面接をする人事も、人を見抜くプロでもなんでもない。

 

 

だから、就活で何かうまくいかないことがあっても、受け流してみてほしい。

 

せめて、あなただけは、あなたを守ってほしい。

 

 

 

 

本記事が、少しでも誰かの役に立てたならうれしい。