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『凄い人・本・映画・概念・理屈』に "感染" した結果、生きやすくなった男が紹介する。悩める10代20代の青年たちへ(もちろん、成長し続けたい大人にも)。

【Gacktガクト名言】 パターンで動くな!自分のルールを持て!

パターンで動くな!

最高にカッコよくてすごい人、ガクト。彼は、しっかりと自分のルールを作り、自分の人生を生きています。彼が今の地位、生き方を作り上げるまでの努力量もすごい。それらが、揺るぎない生きざまを構成しています。

 

今回は、彼の生き方の重要な点である「自分のルールを作る」ことについて語っています。どうやったら、自分の人生を生きることができるのか。周りの人たちに影響されまくり、右往左往してしまっている人にとって、とても参考になると思います。

 

成長したい人にぜひ読んでほしい。

 

彼の言葉はこうです。

 

 

パターンではなく、自分オリジナルのルールで生きろ

 

ほとんどの人は反射で生きている
生活に理屈をつけない だから考えなくてよくなっている
パターンから外れるのはストレスになる

 

理屈のない人生は面白くない
自分オリジナルのルールを決める

 

外に行くと自分のパターンで動いてしまう
自分のルールで動けば、自分が思ってもいない方向に動かなければならない

 

自分を追い込むことで、新しい発見がある

 

 

GACKT PLATINUM BOOK ~Private Treasures~(超豪華本) ([バラエティ])

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 こちらの本も気になります。

 

 

 

 

自分を追い込め

 

「毎日つまらない」

「新しいことないかな」

 

など、日々の生活の変わり映えのしなさに退屈している人は多いと思う。

 

ほとんどの人は、自分の習慣パターンから逃れられない。意識的には自分を変えたいと思っていても、その人の無意識がそのパターンを守ろうとする。だから、変わることができない。これを、苫米地英人などはホメオスタシスの働きのせいだ、という。生物はそもそも一定に保とうとするものなのだ。汗をかいたりして、体温を一定に保とうとするように。

 

だから、このパターンを崩すのは相当難しい。ではどうすればいいのか。ある種の「強制」が必要になる。いいかえれば、自分を追い込むということだ。しかし、自分で自分を追い込むことは、実はとても難しい。なぜならば、人間は自分に甘い生き物だからだ。必ず言い訳をして逃げてしまう。

 

だからこそ、ガクトさんは自分のルールを優先する。ルールによって自分を追い込むのだ。そうでもしないと、自分のパターンからは逃れられない。一度決めたこのルールを貫き通す強さが、ガクトさんの本当にすごいところだと思う。並の人間では、必ず逃げてしまうだろう。

 

そこまで頑張れる理由として、「自分は負けず嫌いだから」と彼は言っている。

 

今一度、自分を追い込むことの必要性を確かめたい。何かと、「自由が大事」「逃げればいい」と言われる現代ではある。

しかし、

 

自分が傷つくことから逃げ続ける

自分の外側に出ない

過去の自分の繰り返しのまま

 

こういったことで、本当に自由に近づけるのだろうか?本当に人生を楽しめるのだろうか?

 

ガクトさんはこれらを否定するだろう。そして、私も彼の主義に同感である。

 

自分に言い訳しない

自分オリジナルのルールを作る

やり通す

 

こうして、言葉にしてしまえばシンプルだ。しかし、実際にこれをやり通せるだろうか?本当に難しいと思う。けれど、だからこそ、実行したならば自分が変わる。真の意味で自分の人生を楽しむことができるのだろう。

 

 

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【概念と友達になる】 遊び的学習方法のすすめ

概念と友達になる???

みなさんは新しい概念と出会った時、どうそれを学ぼうとするでしょうか。

 

そんな私はというと、何か新しい対象に出会った時、「なんとかもっとこいつと楽しめないかな〜」と日頃から感じていました。けれど、その感覚をきちんと言語化してはいませんでした。そんな中、「数学ガール」という本を読んでいてこんな表現に出会います。

 

「〇〇とお友達になる」

 

この〇〇には、数学ガールなので、様々な数学概念が入ります。この「友達になる」という表現は、なんだかとてもしっくりときました。私が求める感覚の理想を表してくれているような気がしたのです。結果として、概念と付き合う方法をより自覚できたように思えます。

 

今回は、この「友達」という言葉の響きと、学習する際の態度について考えてみたい。

 

 

シリーズの中でも、とくにこの一冊を読み込まました。本当に勉強できる本。おすすめです。

数学ガール/ゲーデルの不完全性定理 (数学ガールシリーズ 3)

数学ガール/ゲーデルの不完全性定理 (数学ガールシリーズ 3)

 

 

 


友達という言葉の響き

友達という言葉からは、こんなことを連想してしまう。

 

仲良くなる
ふざけあう
からかう
喧嘩する
助け合う
笑いあう
遊びあう

 

友達という言葉は、とてもイメージしやすい。上に挙げたようにたくさんの意味を含む。人にとって、とても身近な言葉だからなのだろう。

 

一方、数学概念はことごとくイメージしにくい。だから、友達になるという言葉を使うことは、イメージのしやすさを向上させてくれる。とても、とっつきやすくなる。「〇〇とお友達になる」という感覚が、数学ガールという本全体に溢れている。だから、この本は世間に受け入れられているのだろう。

 

数学だけではない。

何か新しい概念に出会った時のことを考えて欲しい。そこでは、この「友達」という感覚、態度はとても有効なのではないだろうか。

 

これは、学習という行いすべてに応用できると思う。こういった働きかけを、新しく学ぶ概念に対して行う。そうすれば、様々な角度からその概念に迫ることができる。

 

まさに、言葉通り、その概念と、仲良くなったり、ふざけあったり、笑いあったり、遊びあったりできるのではないだろうか?それができたならば、その概念はあなたにとても馴染んでいる。つまり、学習が進んだということだ。

 

 

凄い人たちの考え

 「凄いやつら」から、ヒントを貰ってみる。

 

松岡正剛らの編集工学的な読み替えでもないだろうか?友達という言い方は、「遊び」を喚起する。

 

・概念と友達になるとは、コミュニケーション豊かな様子でもあり情緒に溢れている。数学者 岡潔も、「数学とは情緒である」と述べている。

 

・友達という概念は、圧倒的にイメージしやすい。「臨場感が強いものが人にとっての現実だ」という機能脳科学苫米地英人の言葉も浮かぶ

 

 

 

これらヒントを得て、皆さんはどう感じるだろうか?

私は、今後もっと概念たちと遊ぶことができるような気がしている。たくさんの友達を作っていきたい!!

 

学習することの意味、楽しさ、真の教養についてはこちらで考えている。

教養=自分がわかること、と私は定義したい。

 

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上に凄い人の考えを列挙したが、私が思う最高の学習方法は「凄い人」に感染するというものだ。感染というワードにピンとくる方にオススメ。

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【森博嗣 名言】あなたの人生には前例がない

あなたの人生には前例がない

元工学部教授であり、作家である森博嗣さんの意見がためになりました。彼の自由で鋭い考え方には、いつも驚かされます。

 

・自由とは何か

・生き方を自己決定することの本質

・なぜあなたはあなたなのか

・研究とはどういうことか

 

このテーマで考えるいいヒントになるはずです。

 

 

「仮説」を持つことの大切さ

というタイトルで述べられていたことが、とくに響いたので紹介したいと思います。

 

 

研究がこのような試行錯誤の繰り返しになるのは、前例というものがないためだ。

 

人生も、あなたが生まれて、あなたが生きているのは、世界で唯一の条件であって、過去にあなたが生きた例はない。誰も研究していないし、どこにも発表されていない。人生とはフロンティアなのだ。

 

あなたの生き方は、あなた自身が研究し、あなたの仮説をあなたが試してみるしかない。

 

 

 

 

こちらのサイトで全文読めるようです!!

www.excite.co.jp

 

 

 

自由の本質

 

・誰かの真似をしたくなってしまうこと

・集団に合わせてしまうこと

・親や周りの大人から言われたように生きてしまうこと

 

これらが大多数の人の特徴なのかもしれない。そもそも義務教育の段階で、個性を伸ばすのではなく、集団に合わせるようになってしまう。こういう何かにすがって生きる生き方は、ある種の安心感もあるのかもしれない。人間は自分で考えたくない生き物なのだろう。

 

けれど、そんな他者の価値観が優先な生き方は、私にはとても不自由に見える。森博嗣の言葉は、

 

・自由に生きるとはどういうことか

・自分の生き方を自分で決めるということの本質さ

 

を考えさせてくれる。

 

彼のこの言葉を何度でも繰り返したい。

 

人生も、あなたが生まれて、あなたが生きているのは、世界で唯一の条件であって、過去にあなたが生きた例はない。

 

人生も、あなたが生まれて、あなたが生きているのは、世界で唯一の条件であって、過去にあなたが生きた例はない。

 

人生も、あなたが生まれて、あなたが生きているのは、世界で唯一の条件であって、過去にあなたが生きた例はない。

 

 

 

繰り返しすぎだろうか。個人的には、どれだけ強調しても足らないような考え方だと思う。

 

なぜあなたがあなたなのか。

それはあなたが他の誰とも異なるからだ。生物の個体としての差異がある。

 

だからこそ、自分だけの道を自分で探していかなければならない。本質的に、誰ともあなたの人生は異なるのだから。確かにこの過程は、彼が言うようににまさしく研究なのだろう。

 

自分だけの人生を楽しみ切るために、自分の仮説を立てることの有効さを彼は説いているのだと思う。どんどん現代は、情報に触れる機会が多くなっている。これは一見、人々をより自由にするように見える。しかし、まだまだそうは見えない。何が足りないのかといえば、それは、思考である。情報を受けて、考え抜くことが必要なのだ。しかし、むしろ現代は「考えさせない時代」である、と言われている。そこから抜け出すヒントとして、森博嗣も含め、凄い人たちの生き方からは学べることが多いはずだ。最後に決定するのは、もちろんあなた自身のなのだが。

 

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最後に、この言葉を繰り返しておきます。

 

「あなたの生き方は、あなた自身が研究し、あなたの仮説をあなたが試してみるしかない。」

 

 

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【教養とは自分がわかることだ!! 】 あなたの人生に教養が必要なほんとうの理由

教養=よりよく生きるため

 こんにちわ、メタです 
 
今回は教養について考えてみます。
「教養を身につけろ」と、言われた経験はないでしょうか?それもたくさんの大人に。
 
けれど、
 
  • 教養を身につけるって具体的にどういうこと?
  • 教養を身につけると、どんないいことがあるの?
 
など、教養ってなんだよ!?と、私は、素直に受け取れませんでした。教養という言葉を使う大人たちの言葉はなぜか響かなかった。彼らの「教養」という言葉には内実がこもっていない、そう思えたのです。色々と経験した今なら、これらの問いに答えられるかもしれない。むしろ答えてみたい。なぜなら、このテーマで考えることは、「私の生きやすさ」と関係があると強く思うからです。
 
 
私は以下のように「教養」を定義したい。
 
 
 より楽しむ技術が「教養」だ
 
 自分を知ることが「教養」だ
 
 
 

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この「教養の大切さ」を身をもってわかった私は、最強の気分です!!
 
 
 
具体的に言い直します。
 
  • 教養とは、楽しむための技術だ。
  • 教養を身につければ、どんどん「私」がわかってくる
  • 「私は何が楽しいか」がもっとわかってくる
  • 自分で考えることが楽しくなる
 
つまりは、「教養」がよりよく生きることにつながる、と思います。ピンと来た方、ぜひ本文を読んでみてください。 
 

なぜ楽しくなるのか?

私は、広く様々な考え方を知ったことで、楽しむことができる対象がぐんと増えた。趣味が多い人の方が、楽しむことのできる対象が多いということと同様だろう。他の人がつまらないなと思えることでも、楽しく思える。知ることそのものが楽しくなる。もっと楽しいことがあるんだ、という期待を持てる。この循環が心地いい。

 

いろんなものを楽しむことができる。これはかなり生きやすい生き方 だと思う。これは、まさに今私が強く実感していることでもある。さらに、以前の自分にはつまらなかった対象も楽しい対象に変化する、こんな経験もできるようになった。

 

これは、自分が変わることで世界の見方も変わったということを意味する。教養は自分自身を変える。だからこそ、教養と「私」、このテーマが私にはとても大事に思えた。

 
 

教養と「私」 楽しむのはいったい誰なのか?

さてここで、私が重要視しているある視点を導入したい。

 

それは、「楽しむ」のはいったい誰なのか?、ということだ。

 

当たり前な答えだが、それは「わたし」だ。わたしが楽しんでいるのだ。

 

つまり、言いたいことはこうだ。教養が増えれば、いろいろと楽しめるようになる。それとともに、「私」自身のこともどんどんわかってくる。教養を身につけていくことで、「私」自身のことがより見えてくるのだ。自己発見である。繰り返すが、これを私が重要視したい。

 

 

「私」ってどうわかるの?

楽しむという行いと、その行為主体である「私」を分けて考えてはいけない。この二つはセットで考えるべきだと思う。では、「私」がわかってくる、とはどういうことだろうか。「私」を、主体、自我などの言葉に言い換えてもいい。

 

まずは、私、主体、自我ということの本質に迫ってみる。そもそも、「私」を定義することは可能なのだろうか?具体的にやってみよう。自己紹介の場面を思い浮かべるのがてっとり早い。

 

「私は、〇〇という会社に所属していて、〇〇な仕事をしています」
「私は、〇〇大学〇〇学部の2年生です」
「私は、何人家族の長男です」

 

これらの例のように、「私」を紹介するには、他の何かとの関係を使うしかない。つまり、「私」だけを独立に説明することはできない。

 

他のものごととの関係の中にしか、「私」はない。

 

これは、「私」というものの原理的な性質といっていい。たしかに、人は赤ちゃんとして生まれた時には、ほとんど自我はない。成長する過程で、他者、世界、ものごとがあることを体感し、それら他者との比較の中で、「私」つまり自我がどんどん出来上がっていく。こうやって「私」のこととして考えると、発達心理学などの分野も気になってこないだろうか? (こういう経緯で、私は心の学問全般に興味を持っていく...)

 

 

教養によって、「私」のことがわかってくるわけ

関係でしか「私」を捉えることができない。それならば、「私」のことを知るには、他のものとの関係を増やせばいいわけだ。常に人間は成長過程にいる。それならば、赤ちゃんが自我を作り出すように、私たちもいろんなものと関係を通して自分をもっと知る必要があるだろう。

 

「私って、これをしている時が楽しいんだ、落ち着くんだ。」

「私は、こういうことするのはつまらないな」

 

他のものとの関係の中に自分が現れてくる。自分の感情がより見えてくる。これが「私」がわかってくるということの一つだと思う。とにかく、いろんなことをやってみて、いろんなことと関係をつくらないと「私」のことなんてわからない。逆に、わたしが固定的すぎるのでは?と思える人もいる。「私」とは、常に他のものとの交流の中で微妙に変化し続けているはずだ。それなのに、好き嫌い、得意不得意など、きっぱりと自分にそぐわないものを遮断する人もいる。その姿勢は不自由ではないだろうか?

 

こちらでも書いている。

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よりよく生きるために必要なこと

よりよく生きるとはどういうことなのだろうか?

 

よく生きる。

 

ここには「良い悪い」という価値観が潜んでいる。しかし、これが良い、という誰にでも当てはまるような絶対的な価値観はない。

 

森博嗣の小説に出てくる言葉を紹介しておこう。

 

「私には正しい、貴方には正しくない。いずれにしても、正しい、なんて概念はその程度のことです」 

 

とても共感できた。「正しい」などという決まりきってそうな概念ですら、相対的なものなのだ。そして、自分にとって何が良いのか悪いのか、それは他者が決めることではない。よりよく生きる、ということはあくまでもあなたの問題なのだ。

 

自分自身にとって何が良いのかということは、もちろん人によって違う。それならば、人の数だけ生き方はある。そう、ここでも大事なのは「私」自身だ。あなたにとって、より良い生き方があるはずなのだ。

 

そして、その基準を決めるのは、他でもないあなた自身だ。自分で決めるためにも、「私自身」のことを知っておくことが大事になる。だからこそ、自分を知るために必要なものこそ教養だ、と私は定義したい。

 

 

教養と勉強のちがい

本屋に行けば、勉強の大切さをうたい、たくさんの勉強本が出ている。しかし、それらお手軽勉強本を読んで、より生きやすくなれただろうか?

 

私自身、単なる勉強本のループから抜け出す強さなんて、初めはなかったと思う。大概の勉強本は、消費者の不安を煽る。それを買っているだけでは、不安解消マーケティングにただ踊らされているだけだ。そのループから抜け出すためにこそ、「私」の強さがいる。「私」を知ることが重要になる。それに役立つのが教養だ、と私は思う。もっとも大事なことは、あなたが生きやすくなることなのだから。

 

 

僕は君たちに武器を配りたい

僕は君たちに武器を配りたい エッセンシャル版 (講談社文庫)

僕は君たちに武器を配りたい エッセンシャル版 (講談社文庫)

 

さて、こちらの本から教養についての一節を抜き出しておく。

 

大学では「奴隷の勉強」に時間をかけず、自由人になるための「リベラルアーツ(教養)」を学べ

 

自由人になる=自分で考えられる。

私も同感だ。

 

 

 

抽象的すぎ?

教養についに色々と考えてきた。ここまで読んできて、「結局具体的にどういうこと?」「抽象的だなあ」と、思う人がいるかもしれない。

 

私はこう定義した。

 

  より楽しむ技術が「教養」だ
 
  自分自信を知ることが「教養」だ
 
 
確かにまだ抽象的である。
 
けれど、その具体例、中身を決めるのはあくまでもあなた自身なのである。私は、私の例をあげることしかできない。私にとって、教養になったと思えたのは、科学や哲学といった学問もそうだし、小説、映画、すごい人の生き様などもそうだ。それらを通して、どんどん自分のことを知れたし、何が楽しいのかわかってきた。
 
みなさんは、自分にとって、どんな対象が思い浮かぶだろうか?
最後までこのブログを読んでくれた方、どうだろうか?

 

 

 

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【森博嗣 名言】はっきりしない人間になろう

「はっきりしろ」と言われがちな世の中

今回は、作家である森博嗣さんの言葉を紹介したい。

 

彼は、本当に自由な思考の持ち主だ。だからこそ、何ものにも縛られない中立的な意見がほんとうに鋭い。いつも気づかされることが多い。作り出す小説もエッセイも、私はとても好きだ。

 

今回は、

・「私」について

・どういう状態に自分を保つべきか

 

などのテーマについて、考えさせられる。

 

「はっきりする」のがいいことだ、と一般には考えられがちだ。しかし、彼はそれに反してこう言う。

 

 

好きなのか嫌いなのか、自分はどんな人間なのか、そんなにはっきりわかっているのだろうか。僕は、はっきりしている人間というのは、つまりそれだけ「浅い」のだろう、と想像してしまう。

 

物事を簡単に断定しない慎重さこそ「深さ」であって、意見を絶対に変えない頑固さが「浅さ」になる。

 

 

 

 

こちらのエッセイに収録されている。オススメです。

「思考」を育てる100の講義 (だいわ文庫)

「思考」を育てる100の講義 (だいわ文庫)

 

 

 

 

確固たる私なんてないよね

私とは、固定的なものではない、と思う。そもそも、私とは「関係」であるからだ。仏教の縁起からも学べる考え方でもある。例えば、自己紹介するときも「私は、〇〇の仕事をしています。」などと、人間社会との関係によって、私を定義することになる。このように、「私」なんて周囲との関係が変われば、変わっていくものなのだ。「私」という確固たる実態があるように見えるのは、この「私」という言葉のせいにすぎない。

 

成長したいと願うのに、「私はこういう人間だ」と過去の自分に固執する。これは、真逆の動きだろう。こういう時にはこうする、食べ物はこれが好き、などの単純なパターンの積み重ねで生きている状態を、「はっきりしている」と呼んでいるように見えてしまう。それならば、この「はっきりしている」という状態は、不自由なものだろう。

 

人生は数十年もあるのに、全く変わろうとしない人もいる。とくに、大人に顕著な姿勢だろうか。一回きりの人生なのに、変化が少なくてもいいのだろうか。やはり、森博嗣の言うように、はっきりしない態度が重要だと思う。その態度こそ、柔軟に新しいことを発見しようというものだ。それが、人生をより楽しくしてくれるはずだ。

 

はっきりしないということは、常に考え続けよう、ということでもある。「考えるのなんてめんどくさい」と思うだろうか。そう思っている時点で、他者に操作された人生で終わってしまうのでは?「他者によって決められた自分」と「はっきりとした自分」は、近いものに見える。それでいいのだろうか?これも、それぞれ自分でよく考えてみるほかない。

 

「はっきりすべきだ」という言葉に操られてはいけない。言葉の操り人形のままでいいのだろうか。

 

関連して、私は「分人」という考え方を紹介したい。これも、確固たる個人の私が一つだけあるというものではない。いろんな人と接している時に出てくる様々な私が、どれも私である、というものだ。この本のタイトルの「個人から分人へ」の言葉に、私は共感できる。

 

私とは何か――「個人」から「分人」へ (講談社現代新書)

私とは何か――「個人」から「分人」へ (講談社現代新書)

 

 

 

 関連する記事を紹介しておきます。

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【林修 名言】「そんなに君が守ろうとするほど、守るべき自分はないよ」

傷つけられるのを恐れるな

林修、通称林先生の言葉を紹介します。

 

傷つけられるのを恐れる現在の若者への警鐘です。私はとくに、自己実存についてのあるフレーズが響きました。私が、身を通して感じたことと近かった。下で強調している部分です。

自分自信について悩める10代20代の青年達へ、ぜひ届いてほしい言葉です。

 

 

 

居心地のいい仲間としか一緒にいない。ぬるま湯だ。

 

ぶつかり合う中で自分を磨いていけ。

 

そんなに君が守ろうとするほど、守るべき自分はないよ、と言いたい。

 

そんなに傷つけられるのが嫌なのかな?死ぬほどの失恋、何回もしろ!!

 

 

 

 

こちらの本も気になりますね。

 

 

 

私を創るために、私を壊せ

 

私も、林先生の言うことに共感できる。

「私」を固定しないほうがいいと考えているからだ。

 

実際に周囲を眺めていると、「私はこれが好き、嫌い」などと、自分が固まっている人が多い。10代20代で、そこまで決めてしまっている人をみると、不思議に見えてしまう。たかが、20年ほどしか生きていないのに、そこまで自分のことがわかるものなのだろうか?自分とは不変なものなのだろうか?

 

私は、まだまだ自分のことが分からない。だからこそ、色々やってみたい。

 

それでは、もっとも私のことがわかる経験とはなんだろう。その一つが、自分を壊された時だと思う。死ぬほど辛い、傷つく出来事に直面した時などもそうだろう。このスクラップ&ビルドを繰り返して、やっとおおよその私の形が見えてくる。これらは、あらゆる経験をしなければ見えてこないはずだ。

 

自分を固定しない。だからこそ、自分自身の揺るぎのないものができてくる。これは、私が尊敬する森博嗣宮台真司も同様の事を言っている。

 

だから、好きなことが見つからない、自分が分からないと言う暇があったら、どんどん動いてみよう。世界との関係を積極的に作った行くのだ。その関係の結び目として、私が出来上がってくる。

 

そのためにも、今の自分を守ろうとしてはいけない。彼の言葉をもう一度繰り返す。

 

そんなに君が守ろうとするほど、守るべき自分はないよ

 

 

 

 

関連記事として、こんなことも考えている。タイトルにピンとくる方は、是非読んでみてほしい。

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映画はトラウマの予防注射だ!!

映画が与える衝撃

  • 映画とは「体験」だ
  • 映画で先にトラウマ経験をしておくことの意味
  • 映画と"私"との関係を考えるきっかけに

 

これらにピンと来た人は、ぜひ本文を読んでいってください。

 

 

 

水道橋博士の佇まい

タイトルの言葉は、水道橋博士の発言だったと思います。彼が、この言葉を言ったときのたたずまいが印象的でした。彼の表情、身体表現からも、私は何かしらのメッセージを受け取ったのだと思います。


そこには、博士の「ある確からしさ」が見えた気がした。

 

自分自身の体験に裏打ちされ、傷を乗り越えてきたような強さです。そんな博士の態度に、私は感染したのでしょう。

 

思うに、言葉か態度、どちらかが欠けていてはここまで響かなかったのでしょう。単なる言葉なら、そこで重要になるのは理屈などです。けれど、人は言葉そのものよりも、その言葉を誰が言ったのかということに影響を受けやすい。ゆえに、彼だからこそ、なのです。博士の個人的な歴史の積み重ねというデータが、私に何かを伝えたのだろう。


ついでに気になったので意味を調べてみました。

 

たたずまい [ 佇まい ]


① 立っているようす。また,そのものからかもし出されている雰囲気。「城下町の落ち着いた―」「庭の―」
② 身をおく所。転じて,生業(なりわい)。「人間(ひと)さまざまの―」

 

 

トラウマと偶然性

現実を過ごしていけば、必ず凄惨な体験をしてしまいます。

 

現実の体験の方がフィクションよりよっぽどつらい。いじめや死、自分の尊厳が簡単に踏みにじられる体験。そして誰かの何気ない一言。無慈悲で不条理なのが現実です。そんな混沌として、不条理な世の中に、私たちは強制的に産み落とされます。つまり、どんな人も、トラウマ的出来事と遭遇する危険性がある。

 

そして問題なのは、偶然性です。トラウマ的イベントと、あなたがいつどこで出会うか、これはほとんど偶然によるものです。そして、あなたの周りには、無限接触があります。情報から逃げて生活できない以上、何らかの情報はあなたを傷つけるものと化す。だから、どんな人でもトラウマ的経験をしてしまう。

 

ここでトラウマの辞書的定義を確認しておきます。

トラウマ しんてきがいしょう【心的外傷】


個人にとって心理的に大きな打撃を与え,その影響が長く残るような体験。精神的外傷。外傷体験。トラウマ。

 

 

"あなた" とトラウマ、人格形成

ある体験が、なぜトラウマになってしまうのか。これは本人にも、なかなかわからない。理由を求めることそのもの、これが難しいからこそトラウマなのでしょう。


同じ経験をしても平気な人はいくらでもいる。その情報が、その人にトラウマとして残るかどうかは様々な要素が関係してくる。なぜそれが刺さったのか、そこに理路整然とした因果関係を求めるのは難しい。

 

ただ、確かなことは、

”あなた” だから、”その” 出来事がトラウマになったのです。

 

極めて個人的な関係であり、一般的な説明をすることは不可能です。普遍的な説明を手に入れようとすれば、そこから ”あなた” が消えてしまうのだから。

 

その傷はうまく整理しきれず、人の無意識の層に引っかかり続けます。トラウマの性質の話になりすぎるとドツボにはまりそうです。とにかく、トラウマは無意識の領域にへばりつくのだから、その人の人格形成にも関わってくる、ということ。つまりは、かなりあなたの人生に関わるわけです。

 

トラウマについてはこちらをどうぞ。この本と相互作用した私、についてもまたいつか書き記したいところ。大嶋信頼氏の優しさが本当に有難い本です。どうして ”私” は、この本を読まなければならなかったのか。この本そのものも、いつかまとめてみたいですね。

 

 

 

予防注射しといたほうが精神的にいいよね!!

前もって、ある程度辛い体験をしておく方が良い。その体験こそ映画がぴったりです。その心に刺さった何かは確実に、私というシステムを変化させてくれます。つまりは、強くなれるといっていいでしょう。免疫がつく。

 

現実でどうにもならないほど打ちのめされる前に、映画で私を壊してもらおう。映画を観て死にはしないのだから。

 

町山さんのこの本もオススメです。彼が幼い頃に見て、心に引っかかった映画の紹介がされています。映画がいかにその人の成長に関わるのか、実感できます。

トラウマ映画館 (集英社文庫)

トラウマ映画館 (集英社文庫)

 

 

その他に、映画を見る理由として、次の記事も書いています。なぜあなたは映画を欲しているのか、そのある理由がわかるはずです。

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