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教養とは自分がわかることだ 「私=人生」を楽しみきるための技術

教養の定義とは?

 
今回は教養、リベラルアーツについて考えます。
 
「教養を身につけろ」と、言われた経験はないでしょうか。それもたくさんの大人に。なぜ、教養は必要なのでしょうか?
 
  • 教養を身につけるって具体的にどういうこと?
  • 教養を身につけると、どんないいことがあるの?
 
など、教養ってなんだよ!?と、私は、素直に受け取れませんでした。教養という言葉を使う大人たちの言葉は、なぜか響かなかった。彼らの「教養」という言葉には内実がこもっていない、そう思えたのです。色々と経験した今なら、これらの問いに答えられるかもしれない。むしろ答えてみたい。なぜなら、このテーマで考えることは、「私の生きやすさ」と関係があると強く思うからです。
 
 
色々と迷って経験してきた。だからこそ、私は以下のように「教養」を定義したい。
 
 
 より楽しむ技術が「教養」だ
 
 自分を知ることが「教養」だ
 
 
 

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この「教養の大切さ」を身をもってわかった私は、最強の気分です!!
 
 
 
具体的に言い直します。
 
  • 教養とは、楽しむための技術だ。
  • 教養を身につければ、どんどん「私」がわかってくる
  • 「私は何が楽しいか」がもっとわかってくる
  • 自分で考えることが楽しくなる
 
つまりは、「教養」がよりよく生きることにつながる。私はこのように、決断できました。ピンと来た方、ぜひ本文を読んでみてください。 

金銭的な格差よりも、知恵や楽しさの格差の方がずっと大きい

 
まずはじめに、この言葉を紹介したい。これは、作家である森博嗣の言葉だ。彼のとあるエッセイのタイトルである。
その一部を引用させてもらう。
 
教養のない人は、金がないからそれができないと諦めているが、金には無関係である。また、学校で教えてもらえる知識が教養だと勘違いしている人も多い。知識も必要だが、そこから育ってくる先にある人間性に近いものが「教養」であり、「楽しい生き方を知ること」とも換言できる。「教養がある」というのは、「教養を求めている」ことと同じだ。「楽しさ」も「楽しさを求める」ことと同じである。
 
彼の考えにはとても共感出来る。
皆さんはピンとくるだろうか?
 
 
 
 
 
 

なぜ楽しくなるのか?

 

広く様々な考え方を知ったことで、楽しむことができる対象がぐんと増えた。趣味が多い人の方が、楽しむことのできる対象が多いということと同様だろう。他の人がつまらないなと思えることでも、楽しくなる。知ることそのものが楽しくなっていく。もっと楽しいことがあるんだ、という期待を持てる。この循環が心地いい。

 

いろんなものを楽しむことができる。これはかなり生きやすい姿勢 だと思う。これは、まさに今私が強く実感していることでもある。以前の自分にはつまらなかったことも楽しいことに変化する、こんな経験も増えてくる。

 

これは、自分が変わることで世界の見方も変わったということを意味する。

 

教養は自分自身を変える。

 

だからこそ、教養と「私」、このテーマがとても大事に思えた。

 
 
 
 
 
 

教養と「私」 楽しむのはいったい誰なのか?

 

さてここで、私が重要視しているある視点を導入したい。

 

それは、「楽しむ」のはいったい誰なのか?、ということだ。

 

当たり前な答えだが、それは「わたし」だ。

わたしが楽しんでいるのだ。

 

つまい、なにを言いたいのだろう?

 

人生の主体である「私」の存在と教養の関係は深いはずだ!

 

教養が増えれば、いろいろと楽しめるようになる。それとともに、「私」自身のこともどんどんわかってくる。教養を身につけていくことで、「私」自身のことがより見えてくるのだ。自己発見である。繰り返すが、この視点を重要視したい。

 

 

 

 

 

「私」ってどうわかるの?

 

楽しむという行いと、その行為主体である「私」を分けて考えてはいけない。この二つはセットで考えるべきだと思う。では、「私」がわかってくる、とはどういうことだろうか。「私」を、主体、自我などの言葉に言い換えてもいい。

 

まずは、私、主体、自我ということの本質に迫ってみる。そもそも、「私」を定義することは可能なのだろうか?具体的にやってみよう。自己紹介の場面を思い浮かべるのがてっとり早い。

 

「私は、〇〇という会社に所属していて、〇〇な仕事をしています」
「私は、〇〇大学〇〇学部の2年生です」
「私は、何人家族の長男です」

 

これらの例のように、「私」を紹介するには、他の何かとの関係を使うしかない。つまり、「私」だけを独立に説明することはできない。

 

他のものごととの関係の中にしか、「私」はない。

 

これは、「私」というものの原理的な性質といっていい。(仏教哲学の本質である「縁起」にあたる)たしかに、人は赤ちゃんとして生まれた時には、ほとんど自我はない。成長する過程で、他者、世界、ものごとがあることを体感し、それら他者との比較の中で、「私」つまり自我がどんどん出来上がっていく。

 

こうやって「私」のこととして考えると、発達心理学などの分野も気になってこないだろうか? (こういう経緯で、私は心の学問全般に興味を持っていく...)

 

 

 

 

 

教養によって、「私」のことがわかってくるわけ

 

関係でしか「私」を捉えることができない。それならば、「私」のことを知るには、他のものとの関係を増やせばいいわけだ。常に人間は成長過程にいる。それならば、赤ちゃんが自我を作り出すように、私たちもいろんなものと関係を通して、自分をもっと知ることができるはずだ。

 

「私って、これをしている時が楽しいんだ、落ち着くんだ。」

「私は、こういうことするのはつまらないな」

 

他のものとの関係の中に自分が現れてくる。自分の感情がより見えてくる。これが「私」がわかってくるということの一つだと思う。とにかく、いろんなことをやってみて、いろんなことと関係をつくらないと「私」のことなんてわからない。

 

逆に、わたしが固定的すぎるのでは?と見える人もいる。「私」とは、常に他のものとの交流の中で微妙に変化し続けているはずだ。それなのに、好き嫌い、得意不得意など、きっぱりと自分にそぐわないものを遮断する人もいる。その姿勢は不自由ではないだろうか?

 

こちらでも書いている。

interaction.hatenadiary.jp

 

 

 

 

 

よりよく生きるために必要なこと

 

よりよく生きるとはどういうことなのだろうか?

 

よく生きる。

 

ここには「良い悪い」という価値観が潜んでいる。しかし、これが良い、という誰にでも当てはまるような絶対的な価値観はない。

 

森博嗣の小説に出てくる言葉を紹介しておこう。

 

「私には正しい、貴方には正しくない。いずれにしても、正しい、なんて概念はその程度のことです」 

 

とても共感できた。「正しい」などという決まりきってそうな概念ですら、相対的なものなのだ。そして、自分にとって何が良いのか悪いのか、それは他者が決めることではない。よりよく生きる、ということはあくまでもあなたの問題なのだ。

 

自分自身にとって何が良いのかということは、もちろん人によって違う。それならば、人の数だけ生き方はある。そう、ここでも大事なのは「私」自身だ。あなたにとって、より良い生き方があるはずなのだ。

 

そして、その基準を決めるのは、他でもないあなた自身だ。自分で決めるためにも、「私自身」のことを知っておくことが大事になる。だからこそ、自分を知るために必要なものこそ教養であり、それが「よく生きる」ことにつながる、とおもう。

 

あなたにとって、なにが「よい生き方」「楽しい生き方」なのか、教養との関係の中で、もっと広い視点が獲得できるはずだ。

 

 

 

 

 

 

教養と勉強のちがい

 

本屋に行けば、勉強の大切さをうたった、たくさんの勉強本が出ている。しかし、それらお手軽勉強本を読んで、より生きやすくなれただろうか?

 

私自身、単なる勉強本のループから抜け出す強さなんて、初めはなかったと思う。大概の勉強本は、消費者の不安を煽る。それを買っているだけでは、不安解消マーケティングにただ踊らされているだけだ。そのループから抜け出すためにこそ、「私」の強さがいる。「私」を知ることが重要になる。それに役立つのが教養だ、と私は思う。もっとも大事なことは、あなたが生きやすくなることなのだから。

 

教養とくくられるが、その内実は、無限で多様だ。だから、死ぬまで新しいものと自分との関係を結んでいける。死ぬまで、「私」は変化し続けることができるのだ。言い換えれば、思考停止することのない人生といえる。自分で考えることの充実に満ちた人生だ。お手軽な勉強本では得られない快楽である。

 

この力こそ、正解のない現実世界を生きていくうえで、もっとも大切なことではないだろうか?

 

 

 

 

 

 

僕は君たちに武器を配りたい

僕は君たちに武器を配りたい エッセンシャル版 (講談社文庫)

僕は君たちに武器を配りたい エッセンシャル版 (講談社文庫)

 

さて、こちらの本から教養についての一節を抜き出しておく。

 

大学では「奴隷の勉強」に時間をかけず、自由人になるための「リベラルアーツ(教養)」を学べ

 

自由人になる=自分で考えられる。

私も同感だ。

 

こちらの記事でもまとめている。

interaction.hatenadiary.jp

 

 

 

 

 

 

抽象的すぎ?

 

教養についに色々と考えてきた。ここまで読んできて、「結局具体的にどういうこと?」「抽象的だなあ」と、思う人がいるかもしれない。

 

私はこう定義した。

 

  より楽しむ技術が「教養」だ
 
  自分自身を知ることが「教養」だ
 
 
確かにまだ抽象的である。
 
けれど、その具体例、中身を決めるのは、あくまでもあなた自身なのである。私は、私の例をあげることしかできない。
 
私は、教養が最初から大切だと感じて、教養を身につけようとしたのではない。
 
私はたくさん迷った結果、科学や哲学といった学問、小説、映画、すごい人の生き様などを取り入れるしかなかった。それらにすがるしかなかった。けれどそのおかげで、どんどん自分のことを知れたし、何が楽しいのかわかってきた。
 
色々と動いた結果、教養が自分の人生にどんな意味を持つのか、身にしみたのだ。
 
「私は何が楽しいのか」、身をもって決断できる人間になれた。
 

 

 

 

本ブログが、誰かの生きやすさにつながったなら嬉しい。