記事の内容 全体性、社会、世界と「わたし」
「私」っていったいなんなの?
この答えを知るためには、「様々な物事と私の関係」を考える必要があります。私と世界、私と全体性(すべてのものを含むこと)など。これらを科学や哲学、宗教によって分析しようという営みが重要です。
「世界そのものと私の関係ってなんなのだろう、何かしらの意味を見出せないのかな」と私自身、考えていました。このままでは、変な宗教に引っ張られてしまいそうです。
そこで、科学と哲学の出番です!!
そんな時に出会えたのが、今回紹介する本です。
私以外にも、迷える10代20代の若者にとって、生きるための最高のヒントになるはずです。もっと私自身のこと、世界のことを考えたい、けれど教えてくれる人がいない。だからといって、怪しげな大人の言葉に惹きつけられてしますのは危険です。頼るなら、学問に頼りましょう。専用の教養がなければ、カルト宗教に引き込まれてしまうかもしれません。現に、教養があるはずの高学歴な人材が大勢、オウム真理教に入信したという事実もあります。
全体性とは?「世界」とは?「社会」とは?
これらを、科学で扱うには? これらを体感するには?
なぜ人には宗教が必要なのか? 社会で生きる動機付けをどうすればいいのか?
これらテーマを、論理的に考えることの必要性をこの本は訴えている。だからこそ、哲学的、科学的な議論を踏まえることが欠かせないのです。その過程をたどれば、自分自身の実存、アイデンティティの確立に、この議論がいかに関わってくるのか自覚できます。だからこその「覚醒せよ!」という言葉なのでしょう。
サイファ覚醒せよ! 世界の新解読バイブル
サイファ―それは「世界はなぜあるのか」を根元的に問う営みのすべてが共通につきあたる、ある種の暗号のことです。サイファを解読することで、あなたは「世界に触れる」ことができる。
本書の目次
- 「社会の底が抜けている」ことに気づけ
- 「第4の帰属」がなぜ必要なのか?
- 自分自身の「聖なるもの」は何か、に覚醒せよ
- 「サイファ」とは何か
- 「サイファ」として生きる
抽象的な用語がずらずらと。それに宮台氏オリジナルの用語も多いのかも。決して読みやすくはない。けれど、とにかく情報量が多く、様々な教養が詰まっている。得られるものがとても多い。
主要な概念
この本の主題である「サイファ」という概念を理解するために、以下の概念を整理してみたい。
- 世界の根源的な未規定性
- 端的なもの
- 名状しがたいすごいもの
まとめてみよう。
「世界」とは、あらゆるもの全て、全体性のこと。世界の根源的な未規定性とは、「世界」は究極的には説明できない、ということ。
我々人間が、世界の端にたどり着いた時に遭遇するどうしても説明のつかない事実が「端的なもの」。世界は根源的に未規定なので、「端的なもの」が存在してしまう。
規定された社会の中にいるからこそ、まれに「端的なもの」などを通して、「世界の根源的な未規定性」が「名状しがたいすごいもの」として感じられる。
世界の存在そのものに、ああすごいな、と感じてしまう体験などが、「名状しがたいすごいもの」と呼ばれるものだ。
これだけの説明では全くわからないと思う。各々の概念に納得するには、本書で語られる通り、論理と体験を通すしかない。しかし、そのためには思考訓練が必要である。歴代の哲学者たちも、時間をかけてゆっくりと議論してきたテーマだ。浅くはない。
学問の限界
p174
全ての学問は、それが科学であるか否かを問わず、それが閉じた意味論であることに必然的に伴う概念の臨界点があるんです。
学問は、言葉や概念の定義から成り立つ。つまり、定義上、どうしてもその学問の外側を前提にしてしまう場合がある。そうなると、その外側への言及そのものが不可能になる。
科学では解決できない領域の存在!!
p176
科学が世界を説明できるようになればなるほど、世界はシンプルな公理と推論規則から導出される定理によって記述できるようになっていきます。
しかし、「何で E=mc**2 で、E=mc**3 じゃないの」という「端的な事実」=「前提を欠いた偶発性」をめぐる問題が浮上してくるわけです。つまり、科学が世界を説明できるようになればなるほど、実はその説明自体によっては説明されない「端的な前提」が可視的になってしまうわけです。
(強調は、私によります)
その説明自体によっては説明されない「端的な前提」
たしかに、根本原理のようなものの理由は、分からない。他にも、なぜ光速度は一定なのか、という問いにも科学は答えられない。このような、端的な前提は、自然科学の底に横たわっている。
なるほど...そこに科学者は行き着いてしまうのか...!!
だからこそ一流の科学者も「宗教的な実存」を抱いている、という。いや、一流の科学者だからこそ、と言えるかもしれない。
そして本書では、「こんなものやったってしょうがない」と動機付けを失わないのか?、という指摘に続く。その答えとして、科学を極めようとする強烈な動機には、自分自身の宗教的実存を求めたいという感情が欠かせない、という。先端の科学者には宗教家の側面がある、というのだ。
先端の科学者は、「世界」の姿に直面してしまうのだ。どうしても論理では記述できない領域(端的な前提)に、”科学という営み” によって到達してしまう。
「端的な前提」に突き当たるとどうなるのか?
そこでは、この「世界=全体性」ということに直面してしまうことになる。
「世界」とはあらゆるものの全体である、と論理的には定義される。
なぜ「世界」は未規定と言えるのか?
世界の根源的な未規定性に論理によって、たどりつく例として本書では、スコラ神学、ゲーデルの不完全性定理、ウィトゲンシュタインの言語ゲームを挙げている。このうちのどれかの議論に慣れている方は、「論理」の限界をイメージしやすいとおもう。
神と「世界」の矛盾
p180よりまとめさせてもらう。
ありとあらゆるものを神が作ったと考える。
それでは、神は「世界」のどこにいるのか?
「世界」の中にいたら、「世界」を作ることはできない。
「世界」の外側にいるなら、「世界」の定義があらゆるものの全体なのだから、神も「世界」に含まれることになる。
論理では矛盾が出てくる。
こうした、神と「世界」の背理については、キリスト教のスコラ神学の歴史がある。こうした「世界」観を近代科学は受け継いでいる。
まさに "論理" が要求されるところ。
「世界」「全体性」という概念が規定されていない、説明できないということに、論理によってたどり着く。
ゲーデルの不完全性定理
数学というある限定された体系でさえ、穴が開いてしまう。それがゲーデルの不完全性定理である。(しかし、これはあくまでも、数学の形式的体系での定理である。誤用には十分に注意したい。)
世界を論理で覆うことができない。この穴を、世界の根源的な未規定性と表現している。
ゲーデルの不完全性定理についてはこちらへ。
ウィトゲンシュタインの言語ゲーム
ウィトゲンシュタインを引用しつつ、以下のようにも指摘している。
僕たちが論理によって言語を制御するようになったせいで、言語使用が論理的かどうかを反省する論理学というゲームを開始し始めたせいで、突き当たることになった問題ともいえる。
p184
「世界の根源的な未規定性」とは、僕たちが論理を使って言語や思考を制御するようになった段階で、僕たちと「世界」の間にうまれる「根源的な違和」なんですよね。
ウィトゲンシュタインについては、次の記事がおすすめ。
人間にとって真に原初的な自然は、それを写すための言語をもちません。そのような言語がないということが、使用説が「答えなき答え」であることの意味であり、言語ゲームの根底性を示すものだからです。
「端的なもの」と「名状しがたいすごいもの」
p204
「端的なもの」とは説明がつかないものということです。
例をあげよう。
なぜあいつだけ容姿が恵まれているのか。
なぜあいつだけ、容姿が恵まれるようなDNAを持っているのか。
なぜ隣の町だけに災害が起こったのか。
なぜこの世界は、この数式で表せるのか。
これらの「なぜ」は説明できない。
この説明できない「端的なもの」に、あらゆるアプローチによりぶつかってしまう。論理的推論によっても行き着くし、日常の何気ない風景などからも感じとれる。
この日常の体験こそ、「名状しがたいすごいもの」である。
日本人なら、桜を見てこれを感じ取るという。確かにそうだ。本書ではこんな指摘がされる。「日本で、新学期の始まりが4月なのは桜があるからだ。」なるほど、よく考えてみれば、この説明がもっとも納得できる。日本における学期の決め方について、その他の説明では私は物足りなかった。
こうした規定されたものから成り立つ「社会」の中から、たまさか本質的に未規定な「世界」が見えて「しまう」場合、それが「名状しがたい、すごいもの」として現れる。
「名状しがたいすごいもの」の例として、アメリカンビューティーという映画について本書で言及あり。
それについてはこちらで書いています。
関連記事
科学哲学や、全体性というテーマについてはこちらでも触れています。
その他に科学哲学的な視線もふくむ、全体を踏まえようとした議論として情報に注目したものもあります。
続きはこちらへ
社会で生きる動機付けに、 「私」と「社会」と「世界」がどのように関わってくるのか、少しは考えられたでしょうか?
この続きは、こちらで書いています。とくに、システム的な「宗教の定義」が必見です。ぜひ読んでみてください。
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